片道の時刻表

 閉店まで、あと十八分だった。

 古書喫茶「青磁堂」の壁時計は、秒針だけが妙に元気よく進んでいる。柊原亜澄は窓際の席で、転勤の承諾メールを開いたまま、冷めた珈琲にも画面にも触れずにいた。返答期限は今夜。行き先は、海のある町だった。

 恋人には昨日、「離れるなら、たぶん続かない」と言われた。脅しではなく、予報のような口調だった。それがかえって重かった。窓の外を走る最終バスまで、亜澄を置いて先へ行くものに見えた。

 会計台の脇では、閉店にともなう小さな売却棚ができていた。灰皿、ランプ、豆挽き器。その中で亜澄が手に取ったのは、昭和四十八年の時刻表だった。背は日に焼け、角は丸い。開くと、今は廃線になった列車の欄に、青鉛筆で一本だけ線が引かれていた。朝六時十二分発。終点まで、乗り換えなし。

「これも、売り物ですか」

 店主は頷き、値札を指で押さえてからレジを打った。余計な説明はしない。古い紙袋を広げると、時刻表を入れる前に、青い線のページを開いた。閉じれば見えなくなるはずなのに、店主はそこへ薄紙を一枚挟み、袋の口を折った。亜澄が帰ってからも、迷わず同じページを開けるように。

 レジの金額表示が消え、店内の照明が一列だけ落ちた。窓に映った自分は、誰かを置いていく人というより、まだ出発していない人に見えた。

 亜澄は紙袋から時刻表を出した。青い線は、途中の駅をひとつも避けず、終点までまっすぐだった。昔の誰かが何のために引いたのかは分からない。けれど、その線に帰り道が書かれていないことだけは分かった。

 画面に戻り、承諾の欄を押す。送信前の確認が出た。

 店主は閉店札を裏返したが、急かさなかった。レジの横で、紙袋の余った持ち手を丁寧に結び直している。

 亜澄は「承諾する」を選んだ。海の町で続くものも、終わるものも、今は決めなくていい。

 送信完了の文字を確かめ、時刻表を胸に抱えた。

 六時十二分の列車はもう走っていない。それでも、出発時刻だけは、今夜の自分のものになった。