片道盤の午後

広告制作会社を辞めるつもりは、なかった。

少なくとも、戸叶透子はそういう顔で「盤上灯」の戸を押した。地方の小さなラジオ局から届いた採用通知は、今日の二十三時五十九分で失効する。東京を離れる勇気がないのではない。離れたあと、ここで積み上げた七年が無駄だったと認めるのが怖かった。自分が作った広告は駅から外され、担当した商品も次々に改訂された。それでも同じ机に座り続けることだけが、七年を証明する方法に思えていた。

店内に客はなく、壁時計の秒針だけが、細い金属音を刻んでいた。透子は新着箱から、白い紙袋に入った七インチ盤を見つけた。中央のラベルには青い万年筆で『片道の午後』とだけ書かれている。自主制作らしく、歌手名も発売年もなかった。

「試せますか」

店主はうなずき、盤面を光に傾けた。A面には電車の走る音と、誰かが駅名を読み上げる声が入っていた。音楽は始まらないまま、針が内側へ進む。透子は落ち着かなくなり、スマートフォンを伏せた。

店主は曲が終わると盤を裏返した。B面では、遠い波音に重なって、同じ声が一度だけ言った。

――ここからは、まだ録っていない。

それで終わった。

「不良品ですか」

「両面、音は入っています」

店主はそれ以上説明せず、盤を薄紙に戻した。会計のとき、レシートを縦に二つ折りにし、ジャケットの口へ差し込む。白い紙から細長く突き出したそれは、切符に見えた。

透子は店を出ず、入口脇の丸椅子に座った。採用通知を開く。勤務地の欄には、海沿いの町の名がある。七年間が無駄になるのではない。七年間を持って、別の場所へ行くのだ。片道とは、帰れないという意味ではなく、今から進む向きを一つ決める言葉なのかもしれない。そう考えた途端、画面の「承諾する」が、恐ろしいほど普通のボタンに見えた。

店主は次の盤を磨き始めている。こちらを見ない。その無関心に守られるように、透子は親指を置いた。

壁時計が二十三時四十七分を示したとき、片道の午後は、まだ録られていないほうへ進み始めた。