犬は玄関を見ない
八束野史緒の姉が行方不明になって、十二日が過ぎた。
姉の夫は、置き手紙もなく家を出たのだから、もう戻らないつもりだろうと言った。財布と上着が消え、駅の防犯カメラにも似た女が映っていたらしい。
ただ、姉が飼っていた犬のロイだけが妙だった。
ロイはひどい分離不安で、姉がごみ捨てに出ただけでも玄関を引っかき、帰るまで鳴き続ける犬だった。ところが姉が消えてから、一度も玄関を見ない。
昼も夜も、洗面所の床に腹をつけている。
「やっと静かになったよ」
姉の夫は笑った。
「諦めたんじゃないか」
洗面所の床だけ、周囲より新しい灰色のタイルだった。夫によれば、姉がいなくなる前日に配管が破裂し、急いで張り替えたという。
史緒がロイを散歩へ連れ出そうとすると、犬は首輪が抜けそうなほど踏ん張った。床へ鼻を押しつけ、低く鳴く。餌も水も、夫が洗面所へ運んでいた。
夜、史緒は姉の古いタブレットを見つけた。
ロイの首輪には小型カメラがあり、映像が自動保存されている。
姉が消えた日の午前零時。
画面は激しく揺れ、洗面所へ向かっていた。姉の声で「開けて」と聞こえる。続いて、何か重いものを引きずる音。夫がロイを廊下へ蹴り出し、扉を閉めた。
その後の映像は削除されていた。
史緒が警察へ送ろうとしたとき、ロイが床を掘り始めた。爪が割れ、タイルの隙間に血がにじんでもやめない。
一枚の角が浮いた。
下から、姉が使っていた香水と湿った土の匂いがした。
ロイは隙間へ鼻を入れ、尾を振った。
そこから銀色の指輪をくわえ出す。裏側には姉夫婦の結婚記念日が刻まれていた。
「それ、どこで見つけた」
背後で夫の声がした。
振り返ると、彼はタイルを割るための大きな金槌を持っていた。
「警察は駅の女を姉さんだと思ってる」
「上着と帽子を貸しただけだよ。遠目なら誰でも同じに見える」
夫はそう言ってから、自分が何を認めたのかに気づいた。
ロイは史緒を守るように立たなかった。
夫にも吠えなかった。
ただ床へ向かって伏せ、帰ってきた主人に甘えるときと同じ声で鳴いた。
ロイが玄関を見なかったのは、姉がまだ家にいたからだ。