狐火は傘を貸さない

駅裏の細い坂を上りきると、雨の中にだけ現れる相談所がある。

梢が引き戸を開けると、濡れた畳の匂いと、赤い傘が一本あった。

「傘は貸さない」

帳場の男は挨拶より先に言った。黒い羽織は、外が土砂降りなのに一滴も濡れていない。切れ長の目の奥で、狐火が二つ揺れていた。

「まだ何も頼んでません」

「人間は雨の日にしか本音を吐かない。傘を貸すと、すぐ口を閉じる」

男は白朔と名乗った。人間嫌いだとも、わざわざ名刺に刷ってあった。

梢は会社の鞄から、印刷した退職届を出した。三か月前から書いては持ち帰っている。残業を押しつける上司より、残される後輩の顔が怖かった。

「辞めたら、みんなに迷惑がかかります」

「もうかけられている側が言う台詞ではない」

白朔は赤い傘の石突で、退職届の「一身上の都合」という文字を指した。

「都合を一つ書け。人手不足は会社の都合。眠れないのはお前の都合だ」

「そんなこと、書けません」

「では口で言え。人間は紙にすると急に礼儀正しく嘘をつく」

腹が立った。梢は、後輩に相談された夜も、休日の着信も、朝になると吐き気がすることも、一息に言った。声が震え、最後には涙と雨の区別がつかなくなった。

白朔は黙って湯呑みを置いた。中身は熱い茶ではなく、雨水だった。口にすると不思議に甘く、言えなかった言葉だけが喉を通っていった。

白朔は慰めなかった。ただ、朱肉の代わりに小さな狐火を印鑑へ移し、押す場所を照らした。

「明日ではなく、今日出せ。濡れた人間の言葉は、乾くとまた嘘になる」

梢が判を押すと、狐火は消えた。

帰ろうとして、外の雨脚に足を止める。すると背後から赤い傘が差し出された。

「貸さないんじゃ」

「これは返さなくていい」

「どうして」

「もう十分、濡れた顔をした」

傘を開くと、内側に小さな字があった。

――雨宿りは、逃げではない。

振り返ると白朔は、濡れない黒い羽織の肩を払いながら、いつもの調子で言った。

「傘は貸さない。だから、持っていけ」