玄関まで、いつもどおり

若槻順弥が「別れたい」と言ったとき、砂原小鞠は卵焼きを裏返していた。

「焦げるから、座って」

「小鞠」

「朝ごはんのあとで聞く」

順弥は箸を持ったまま、一口も食べなかった。

三か月前から、小鞠には分かっていた。帰宅しても「ただいま」を言わなくなったこと。休日の予定を訊くと、考える前に疲れた顔をすること。眠るとき、背中ではなく壁を向くようになったこと。

誰かがいるわけではない。

ただ、彼の心の中で、この部屋が帰る場所ではなくなったのだ。

食後、小鞠は押し入れから段ボールを二箱出した。

シャツも本も、彼が好きな青いマグカップも、すでに詰めてある。

「いつから準備してた?」

「あなたが、このマグでコーヒーを飲まなくなった頃」

「言ってくれれば」

「言ったら、好きなふりをしてくれたでしょう」

順弥は否定しなかった。

その沈黙が、最後の答えだった。

「ごめん」

「謝らないでとは言わない。でも、全部あなたが悪い顔もしないで」

「小鞠は、怒っていい」

「怒ってるよ。すごく」

彼女は笑った。

笑えることと、傷ついていないことは違う。

順弥は玄関で合鍵を外した。

外は雨だった。小鞠は傘立てから黒い傘を取り、彼に渡した。

「これは僕のじゃない」

「あなたの、先月なくしたから。持っていって」

「どうして、そこまで普通にできるんだ」

「最後まで、私との暮らしを罰みたいにしたくないから」

順弥の顔が歪んだ。

戻りたいのではない。戻れない自分を許してほしい顔だった。

小鞠は靴べらを渡し、曲がった襟を直した。

何百回もしてきたように。

「元気で」

「小鞠も」

「うん。元気になる」

扉を開けると、雨の匂いが入ってきた。

順弥が一歩出る。

小鞠は反射的に言った。

「いってらっしゃい」

彼は振り返ったが、「行ってきます」とは言わなかった。

代わりに深く頭を下げ、廊下の向こうへ歩いていった。

扉が閉まってからも、小鞠はしばらく笑顔のまま立っていた。

足音が階段の下へ消えたところで、ようやく頬が崩れた。

玄関には、彼のスリッパだけが残っていた。

小鞠はそれを捨てず、靴箱の奥へしまった。

待つためではない。

あの人を笑って送り出せた自分が、翌朝には泣いていても、間違いではなかったと覚えておくためだった。