玄関灯を一つだけ
由良乃は、景嗣の帰りが遅い夜だけ、玄関の灯を一つにする。二つとも点けると「待っています」と大声で言うようで、一つなら、たまたま消し忘れた顔ができるからだ。
十一時を過ぎ、鍋の中の豚汁は三度目の弱火にかかった。煮返すたび、大根の角が丸くなっていく。由良乃は味見の匙を洗い、また伏せた。連絡には「もう出る」とあったが、景嗣の「もう」は駅の改札を出る時もあれば、机を片づけ始めた時もある。
テレビを消すと、冷蔵庫の低い唸りと、柱時計の秒針が家を分け合った。由良乃は読みかけの本を膝に載せたまま、雨戸の隙間を見る。そこだけ夜が薄く、玄関灯の蜜色が細く伸びている。
やがて鍵が一度つかえ、二度目で回った。
「ただいま。起きてた?」
「本がいいところだったから」
栞は二時間前から同じ頁に挟まっている。景嗣は気づかず、肩についた夜気を払いながら台所へ行った。鍋の蓋を開ける音のあと、「いい匂い」と声がした。
由良乃は玄関へ行き、灯を消した。暗くなった土間には、濡れた革靴の匂いと、廊下を戻ってくる豚汁の湯気が混じった。二人分の椀を出すあいだ、待っていた時間は大根の中へすっかり染み込み、もう取り出せないものになっていた。
景嗣は最初の一口を急ぎ、舌を少し焼いた。「熱い」と笑う。その声を聞いてから、由良乃もようやく椀を持った。掌に移る熱は、消した玄関灯の代わりのように、しばらく明るかった。
食べ終えた景嗣は、朝に自分が出したままの新聞を畳み、食卓の端へ寄せた。由良乃はその何気ない手つきを見て、留守のあいだ止まっていた家の歯車がまた噛み合うのを感じた。洗った椀を伏せると、底から雫が一つ落ちる。外の雨はもうやみ、軒先にも同じ速さで雫が落ちていた。明日の朝には大根の残りを温め、二人とも別々の時刻に出ていく。それまで鍋は、台所の隅でわずかな熱を抱いている。
寝室へ向かう途中、由良乃はもう一度だけ土間を見た。暗い靴の隣に景嗣の靴があり、濡れた爪先だけが、遅い夜の光を鈍く返していた。