玄関鏡の朝番
夫を亡くしてから、母は毎朝五時に起きた。
弁当を作り、洗濯機を回し、二人の子どもを起こす。職場へ遅れないよう髪を結びながら、何度も「大丈夫」と言った。
ある朝、玄関鏡の前で、つい呟いた。
「今日は無理」
鏡の中の自分が先にうなずき、外へ出てきた。
もう一人の母は、家族の誰かに「おかえり」と言われるまで、本人の朝を代わってくれるらしい。
本物の母は寝室へ隠れた。
偽物は焦がさず卵を焼き、上の子の忘れ物を見つけ、下の子の髪をきれいに結んだ。
夫がいた頃の自分より、ずっと手際がよかった。
「今日のお母さん、怒らないね」
下の子が言う。
偽物は微笑んだ。
「怒らない方がいい?」
「違う。怒る元気もない日は、言ってほしい」
上の子も、弁当箱を受け取りながら小声で言った。
「昨日、洗面所で寝てたでしょう」
「見てたの?」
「毛布かけたの、私」
母は扉の向こうで息を止めた。
疲れを隠せば、子どもは安心すると思っていた。実際には、隠された分まで二人が見張っていた。
偽物は二人を玄関まで送った。
「いってらっしゃい」
声も笑顔も本物と同じだった。
下の子が靴を履き、ふと鏡を見た。
寝室の扉の隙間に、本物の母の目が映っている。
子どもは振り返らず、玄関の外へ向かって言った。
「おかえり、お母さん」
偽物が光のように薄れた。
母は寝室から現れた。
髪は乱れ、頬には枕の跡がある。
「ただいま」
と言うと、二人は驚かなかった。
その日は会社を休んだ。
上の子が学校へ欠席連絡を入れようとしたので、
「それは私がする」
と笑った。
下の子は焦げた卵でもいいから、夜は一緒に食べたいと言った。
玄関鏡は翌朝も、疲れた顔を映した。
母は「今日は無理」と言いかけ、先に家族へ言った。
「今日は少し無理。朝番、分けて」
上の子が米を炊き、下の子が箸を並べた。
卵はやはり焦げた。
もう一人の母は現れなかった。
完璧な代役が必要だったのは、家族が母を必要としていたからではない。
母自身が、助けを求める自分を家族に見せられるようになるまでだった。