甲羅に残らない印

御厨那由が実家へ戻ったのは、父の四十九日を終えた翌朝だった。

古い家は売る。家具も処分する。東京の部屋へ持ち帰るのは、母の裁縫箱だけ。そのつもりだった。

縁側の水槽で、クサガメの玄兵衛が首を伸ばした。

三十二年前、六歳の那由が祭りで買ってもらった亀だ。世話は三日で父任せになり、進学で家を出てからは、帰省しても水槽をのぞかなかった。

「おまえは、まだいたのね」

玄兵衛は答えず、前脚をガラスへ当てた。

父と最後に喧嘩したのは五年前だった。転職に失敗して帰ってきた那由へ、父は「急ぎすぎたな」と言った。

「亀みたいに生きていたら、何も手に入らない」

言い返すと、父は水槽の水を替えながら、「遅いものにしか見えない景色もある」と呟いた。慰められたのではなく、負け犬と呼ばれた気がして、その日のうちに帰った。

水槽台の引き出しから、厚い大学ノートが出てきた。表紙には〈玄兵衛飼育記録〉。水温、餌、甲羅の長さ。几帳面な数字が三十二年ぶん並んでいる。

ところが欄外には、亀とは関係のない記録もあった。

〈那由、小学校入学。玄兵衛より歩くのが速くなる〉

〈初めて一人で東京へ。玄兵衛、見送り中に寝る〉

〈転職。電話の声は暗いが、翌月には笑った〉

〈帰ってこない。元気ならよい〉

最後のページには、父の震える字でこうあった。

〈甲羅の古い傷は、大きくなると目立たなくなる。消えたのではない。傷を抱えたまま、その先が育ったからだ。人も同じならよい〉

那由は水槽の前にしゃがんだ。玄兵衛の甲羅には、幼い自分が落とした石でついた白い筋があった。昔よりずっと小さく見えた。

父は失敗を忘れろと言ったのではなかった。失敗の外側まで生きろと言っていたのだ。

押し入れには、蓋に空気穴を開けた運搬箱が用意されていた。側面に〈那由が迎えに来たとき用〉と書かれていた。

東京の部屋に、大きな水槽と日光浴用の台が増えた。狭くなったが、不思議と息がしやすかった。

新しい飼育ノートの一行目に、那由は書いた。

〈玄兵衛、三十二年目の引っ越し。那由、三十八歳。傷の外側を育て始める〉

玄兵衛はゆっくり水へ入り、ページの上へ光を揺らした。