留守番電話の六十秒
青砥史乃が実家の押入れから見つけた留守番電話には、一本だけ消せないメッセージが残っていた。
十五年前の自分の声だった。
『今日は帰らない。来週も、たぶん帰らない』
父と喧嘩した夜、史乃が公衆電話から吹き込んだものだ。父は翌日、「勝手にしろ」とだけメールを寄越した。それから二人は、盆と正月に親戚越しの近況を聞く関係になった。
子どもの頃、父は駅へ迎えに来るのが早すぎた。部活が長引いても、終電を逃しても、改札の外で腕を組んでいた。史乃はそれを、信じてもらえていない証拠だと思っていた。待つことしかできない人なのだと気づいたのは、自分も誰かを待つ年齢になってからだった。
父は生きている。電車で二時間の町に住み、最近、膝を悪くしたらしい。それでも史乃は電話できなかった。十五年分の沈黙は、最初の一言より重かった。
再生ボタンを押すと、部屋の壁紙が昔の花柄に戻った。
受話器が鳴っている。史乃の手は十九歳の細さだった。留守番電話の小窓では、赤い数字が六十から減っている。
五十九、五十八。
史乃は受話器を取った。
「もしもし」
向こうで父が息をのんだ。たぶん、史乃からかかってくると思っていなかったのだ。
「さっきの、聞いた」
「うん」
「帰らないんだな」
数字は四十二。
昔の史乃なら、責められたと思った。今なら、その声がひどく不器用に引き止めていると分かる。
「今日は帰らない」
父が黙った。
「でも来週は帰る。駅まで迎えに来なくていい。膝、痛くなるから」
「膝?」
しまった、と史乃は笑った。数字は十七。
「十五年後に痛くなるの。だから今から大事にして」
「何を訳の分からんことを」
「それと、私、怒ってるけど、嫌いじゃないから」
残り三秒で、父が言った。
「俺もだ」
電子音が鳴り、花柄の壁が消えた。
史乃は押入れの前に座っていた。留守番電話の表示は空白になっている。
そのとき携帯が鳴った。画面には「父」とあった。登録した覚えのない名前だった。
「来週、来るんだろ」
父の声は十五年分老けていた。
史乃は涙を拭かずに答えた。
「うん。駅まで迎えに来なくていいよ」
「十五年前から毎回言うな。迎えに行く」
「じゃあ、改札で待ってる」
電話を切ったあと、史乃は空白になった留守番電話を抱えた。
待ってくれる人のところへ、今度は自分から帰れる。