白い救命艇
助かった、と私は白い舷側に手をかけた。
黒い海で三十分も板切れにしがみついていた。指は開かず、喉には油と塩の味がこびりついている。白い艇の男たちは無言で私を引き上げ、銀色の毛布を肩へ巻いた。
男たちは私の名も、沈没地点も尋ねなかった。濡れた服を切る代わりに、上着のポケットを一つずつ裏返し、拾った財布を透明袋へ封じた。救助記録を作るのだろうと思ったが、袋には日付ではなく「再収容」と印刷されていた。目が霞み、読み違いだと自分に言い聞かせた。
艇には船名がなかった。救命浮環にも番号がなく、男たちの黄色い手袋だけが妙に新しかった。
「左手を」
救急処置だと思って差し出すと、男は傷より先に手首を確かめた。そこには輪のような赤い擦れ跡がある。男は頷き、毛布の端を座席の金具へ通した。
「揺れるから固定する」
確かに波は高い。私は疑わず、腰の前で結ばれる布を見ていた。
船長らしい男が尋ねた。
「沈んだ船に、ほかの生存者は?」
「いない。貨物船で、乗っていたのは私だけだ」
答えると、三人が一瞬だけ顔を見合わせた。通信機から雑音が鳴ったが、船長は電源を切った。
「海保には?」
「嵐で通じない」
それでも艇は迷いなく闇を進んだ。港の灯は見えない。代わりに後方から白い探照灯が何度も海面をなぞった。
足元に、濡れた金属片が落ちていた。拾おうとすると、手袋の男が靴で隠す。太い鎖の切れ端だった。私の右足首にも、手首と同じ赤い輪がある。
「病院へ行くんだろう?」
「もちろん」
男は笑わなかった。
艇の後部には白い扉があった。波で開いた隙間から、床へ固定された三脚の椅子と、壁の手錠が見えた。救急器材庫だと考えようとしたとき、扉はすぐ蹴り閉められた。
やがて通信機が勝手に息を吹き返した。
『護送艇転覆。逃走中の収容者は三十代、右足に拘束痕。周辺船は救助せず、発見次第――』
船長が送信ボタンを押す。
「対象一名、回収済み」
毛布の結び目が引かれ、下から鉄の輪が現れた。男はそこへ私の両手を収める。
白い艇が探照灯へ向きを変えた。
助かったのは命だけだった。