白熊は泡を急がせない
椎堂依吹が喫茶店「北窓」へ駆け込んだとき、閉店まで二十分だった。
「一番早く出る珈琲をください」
カウンターの向こうで、シロクマのマスター白湯は時計を見た。白い前足でネルを持ち、人間の店員が横でカップを温めている。
「早く飲めるものと、早く落ち着けるものは違います」
「では、両方早いものを」
「難しい注文ですね」
白湯は少しも急がず、牛乳を小鍋へ注いだ。
依吹は午後の社内発表で失敗した。資料はそろっていたのに、質問を受けた途端、頭の中の順番が崩れた。取り戻そうと速く喋るほど息が続かず、最後は「以上です」だけが大きく響いた。
「明日、もう一度説明することになりました」
「それで、今夜中に喋る速さまで直そうとしている」
「顔に書いてありますか」
「鞄から資料が三センチ出ています」
白湯は泡立てた牛乳を珈琲へ注いだ。表面に描かれたのは、丸とも雲ともつかない白い形だった。
「失敗ですか」
「泡は毎回、同じ形になりません」
「お店なのに?」
「味がよければ、形には休んでもらいます」
依吹が一口飲むと、先に温かな牛乳が舌へ触れ、そのあと珈琲の苦みがゆっくり追いついた。白湯はシナモンを一振りし、言った。
「質問されたら、一度飲み込むふりをするといい。人は間を、失敗とは思いません」
「沈黙が怖いんです」
「北極では、何も聞こえない時間の方が長いですよ」
「ここ、商店街ですけど」
「経験は持ち運べます」
依吹は資料を鞄へしまった。明日の説明を頭の中でやり直す代わりに、カップの泡が少しずつほどけるのを眺めた。
閉店時刻になっても、白湯は急かさなかった。人間の店員が椅子を上げ始め、最後に依吹の席だけを残す。
「ごちそうさまでした」
立ち上がると、白湯が低い声で付け足した。
「明日は、最初の一文のあとで息を一つ」
翌日、依吹はその通りにした。沈黙は一秒にも満たなかったが、誰も困らなかった。説明を終えた帰り、北窓の扉を開けると、白湯は何も訊かず同じカップを出した。
今度の泡は細長い島の形だった。依吹は笑い、急がず口をつけた。店には珈琲と温めた牛乳、かすかなシナモンの香りが漂い、昨日よりゆっくりした夕方が、窓辺へ積もっていた。