白磁に残る席

安積汀が喫茶アネモネを訪れたのは、母の四十九日を終えた翌週だった。商店街の裏通りにある店は、午後五時でも客がなく、磨かれた丸テーブルだけが薄い西日を受けていた。

母は十五年、毎週水曜の同じ時刻にここへ通っていたらしい。家では紅茶しか飲まなかったのに、店では決まって深煎りを頼んだという。その話を葬儀の帰りに店主から聞き、汀は母に自分の知らない一人の時間があったことを、少し裏切りのように感じていた。

家の母は、食卓でも居間でも家族の好みを先に聞く人だった。親戚は、汀の結婚を見届けられなかったことだけが心残りだったはずだと言った。だからこそ汀は、母なら実家の二階へ入る話にも賛成しただろうと、自分へ言い聞かせていた。

カウンターに置かれた白いカップには、持ち手の付け根を留める小さな真鍮の鎹が二本あった。母が使っていたものだという。捨てる予定なら譲ってほしいと頼むと、店主は値段を言わず、まずカップを湯で温めた。そこへ一杯だけ珈琲を注ぎ、母の席ではなく、窓際の一人用テーブルへ運んだ。

汀のスマートフォンには、婚約者から三件の通知が届いていた。結婚後は彼の実家の二階に住む。その話はいつの間にか決定事項になっていた。今夜までに改装業者へ返事をするらしい。汀は反対する理由を何度も考えたが、どれも「わがまま」に見えて送れずにいた。

口をつけると、カップの鎹が指に触れた。直してまで使われてきたのに、母の家には一度も持ち帰られなかった品だった。母はここでだけ、自分のために一客を選び続けたのだ。

飲み終えると、店主はカップを洗い、古い新聞紙ではなく、無地の白い薄紙で包んだ。二客用の箱から仕切りを抜き、空いた半分には詰め物を入れた。会計票には「白磁カップ 一客」とだけ書き、贈答用のリボンを掛けずに汀へ渡した。

店を出る前、汀は箱を片腕に抱えたまま、不動産会社のサイトを開いた。先月から何度も見ていた小さな部屋には、まだ空室の表示がある。

婚約者への返信より先に、汀は内見予約のボタンを押した。