白紙のプレート

榛名澄乃が商店街の洋菓子店「モナミ」に入ったのは、転勤承諾の返信期限まで四十分を切ったころだった。

磨り減った市松模様の床の先で、ショーケースの照明だけが白く明るい。並んでいたのは十二センチのデコレーションケーキが一台。苺の季節には早く、薄桃色のバタークリームで小さな花が絞られていた。

「プレートは、何とお書きしますか」

店主はチョコレートの楕円を銀のトレーに置いた。

澄乃は答えられなかった。地方支社の立ち上げを任せたい、と届いた辞令は、二十七歳の自分には早すぎる気がした。母には遠いと言われ、同僚には羨ましいと言われた。どちらの言葉も、まだ自分の返事ではない。転勤先の地図には、行ったことのない川と路面電車があった。昼休みに何度も拡大し、住む町として眺めては、期待した自分を見つけるたび画面を閉じていた。その町で暮らす自分を思い描くことさえ、家族への裏切りのように感じていた。

「おめでとう、では変ですか」

「お祝いの内容は、こちらでは決めませんので」

それだけ言うと、店主は細い紙筒から一本の蝋燭を抜いた。数字も飾りもない、まっすぐな白い一本だった。プレートには文字を書かず、代わりに箱の側面へ今日の日付を小さく記した。

会計のレシートには、商品名の下に「一名様用」と印字された。以前なら、そこに寂しさを見つけていたかもしれない。けれど今夜、このケーキを切るのは自分だけでいい。誰かに祝う理由を認めてもらってから、決めなくてもいいのだ。

店主は箱の持ち手を二度引いて強度を確かめ、蝋燭を側面の隙間に差し込んだ。扉を開けると、アーケードの時計が六時二十分を指していた。

澄乃は店先のベンチに箱を置き、スマートフォンを取り出した。承諾のボタンは、思っていたより小さい。

押したあと、備考欄に「着任日は予定どおりでお願いします」と打った。

箱の中で白い蝋燭が転がり、角に当たって一度だけ鳴った。今夜火をつけるとき、願い事はしない。これは、もう決めた人のための灯りだった。