白線の向こうで息をする
「アンカー、代わってくれ」
晴真がそう言ったのは、男子リレー招集の五分前だった。足首には白いテープが巻かれ、本人より先に、もう走れないと認めていた。
砂羽は僕の背中を押した。
「行けるよ。昨日、二百を一本だけ走ったでしょ」
「一本だけだよ」
「一本あれば、校庭半周は走れる」
そんな算数があるものかと思ったが、反論する時間はなかった。僕は晴真のゼッケンを安全ピンごと胸につけた。三年二組、赤。針が指に刺さり、血が一滴ついた。晴真が何度も洗って使った布は、汗の匂いがした。借りたのは番号だけではなく、今日までの練習全部なのだと、その時になって重さが分かった。
スタート位置へ向かう途中、晴真が松葉杖で追いついてきた。
「勝てないかもしれない」
「知ってる」
「俺より遅い」
「それも知ってる」
「じゃあ、なんでそんな顔してんだよ」
僕は笑っていたらしい。
前三人は、信じられないほど速かった。二位でバトンが来る。手のひらに硬い筒が当たった瞬間、歓声が一枚の壁になった。前を走る青組の背中は遠い。後ろからは足音が迫る。
白線だけ見た。肺が裏返りそうで、脚は自分のものではなく、昨日の一本分の記憶だけが身体を運んだ。応援席の最前列では、普段ほとんど声を出さない委員長まで腕を振っていた。名前の呼ばれ方が一人ずつ違い、その全部が背中へ押し寄せた。
直線で一人に抜かれた。ゴール直前でもう一人に並ばれた。僕は胸を突き出し、砂に転がった。
結果は四位だった。
起き上がれない僕の視界に、松葉杖が二本立った。晴真は悔しそうに口を曲げ、それから手を差し出した。
「遅かった」
「知ってる」
「でも、最後まで振り向かなかった」
その手をつかむ前に、砂羽が横から僕の手を叩いた。乾いた、大きな音がした。
「一本で足りたじゃん」
得点板では、赤組の数字がひとつ下がった。クラスのみんなは、それでも僕の名前を呼んでいた。
あの日、僕は勝った記憶を持ち帰れなかった。
代わりに、白線の向こうで息をしていた自分を、今も忘れずにいる。