白衣を着た被害者
鴇沢貴臣院長は、診察室の床で震えていた。白衣の左袖は血に濡れ、浅い切り傷が何本も並んでいる。
机の向こうには、医療秘書の梶浦真帆が倒れていた。胸には手術用メスが刺さっている。
「彼女は私に執着していたんです」
鴇沢は事情聴取で、匿名のメールを見せた。
〈あなたがしたことを知っている〉
〈もう逃がさない〉
〈必ず、その手を止める〉
「今夜、二人きりになった途端、襲われました。必死で手首をつかんだら、彼女が転んで……」
病院の職員たちは同情した。梶浦はこの一か月、院長の予定を調べ、過去の手術記録を持ち出していた。廊下の防犯カメラにも、彼女が診察室へ入る姿が映っている。
鴇沢は被害者用の毛布に包まれたまま、何度も言った。
「私は、助かりますよね」
「傷は浅いですから」
私は答え、机に一台のスマートウォッチを置いた。梶浦のものだ。
転倒を検知すると、自動で周囲の音を保存する機種だった。
再生すると、最初に聞こえたのは梶浦の声だった。
『移植患者の順番を、寄付金で入れ替えた記録です。亡くなった三人の遺族にも渡しました』
続いて、鴇沢の声。
『それをよこせ』
『警察にも送信済みです』
椅子が倒れ、梶浦が悲鳴を上げる。鴇沢が荒い息で「脅すからだ」と呟く。しばらくして、布の擦れる音と、小さな呻きが続いた。
『この程度なら、襲われた傷に見える』
録音が終わると、鴇沢は左腕を抱え込んだ。
彼の傷はすべて、右手でつけやすい向きに走っていた。一方、梶浦の両手には、刃を防いだ深い傷が残っている。匿名メールも脅迫ではない。不正を告発する前に送った、最後通告だった。
「彼女が私を追い詰めたんだ。私だって被害者だ」
鴇沢は毛布を握りしめた。
私はそれを取り上げ、床の梶浦へ静かに掛け直した。
「あなたが奪ったのは、彼女の命だけではありません」
手錠の音に、院長は顔を上げた。
「被害者の席まで奪おうとした」
翌朝の新聞は、病院長襲撃事件を一面で報じる予定だった。
締切直前、見出しは差し替えられた。
〈告発者殺害――名医を逮捕〉