百一灯目
【燈浦村・百灯流し 調査日誌/水科篤海】
八月十三日、十九時四十分。川沿いの集会所で昭和四十年の祭礼帳を閲覧。最終頁に、墨ではなく青い鉛筆で一文だけ書かれていた。
《流れてくる灯籠を、声に出して数えてはいけない》
村の聞き取りでは、灯籠は死者の数ではなく『帰ってきた数』だという。篤海が、では誰が数えるのかと尋ねると、保存会長は川へ唾を吐き、『数えた者が最後に足される』と冗談めかした。指導教員へ送った質問は既読になったが、返事はなかった。
二十六歳の篤海は、民俗学の修士論文に「百灯」という名称の由来を書くつもりだった。保存会は百基を流すと言うが、古い写真では数が合わない。目視より音声記録の方が確実だと考え、胸ポケットのスマホで録音を始めた。
川は線香と濡れた紙の匂いがし、対岸では姿の見えない子どもが同じ節を何度も歌っていた。灯籠が通るたび、歌声は一人分ずつ増えた。
二十時十二分。上流から灯籠が一つずつ来る。子どもの名、屋号、亡くなった年が書かれている。篤海は黙って指を折った。七十を越えるころ、指の数が分からなくなった。録音に残せば後で確認できる。そう思い、一度だけ口にした。
「百」
その直後、火の入っていない灯籠が流れてきた。白い紙には何も書かれていない。流れに逆らい、篤海の足元で止まった。保存会長は見ないふりをして、次の灯籠へ長い竹竿を伸ばした。
帰宅後、録音を自動文字起こしにかけると、篤海の声は百までしかなかった。ただし最後に、別の声で「ひゃくいち」と入っている。声紋表示は篤海と完全に一致した。
気味が悪くなり、川で撮った写真を削除した。ほとんど真っ暗で、水面に光の筋があるだけの写真だった。
日誌を閉じようとすると、未入力だった翌年の頁に『百一灯目、水科篤海』という行が追加されていた。筆跡は今の彼と同じだった。
翌朝、写真アプリから通知が届いた。
《人物を百一人検出しました》
小さな顔認識枠が、水面いっぱいに並んでいる。そのうち百個は知らない老人や子どもの顔だった。最後の一個だけは、昨夜の服を着た篤海だった。
続いて、日常的な確認画面が開いた。
《新しい共有アルバム「水科家」を作成しますか? 参加者:百一人》