百二十七回目の火曜日

 母が死んでから、寝室の扉は二年半、閉じたままだった。

 父は「まだ片づける時期じゃない」と言い、姉は「このままでは家ごと止まる」と怒った。弟は帰省するたび、扉の前を早足で通り過ぎた。

 家を売る話が出た日、三人はようやく部屋へ入った。

 箪笥には季節順に服が並び、鏡台には使いかけの口紅、椅子には読み終えなかった本が伏せてある。昨日まで母がいたようで、誰も何にも触れられなかった。

「一日でやるから無理なんだ」

 姉が言った。

 そこで毎週火曜日、一人一品だけ選ぶことにした。

 一回目は、父が母の青い上着を残した。

 二回目は、姉が期限切れの化粧品を捨てた。

 三回目は、弟が本を持ち帰った。

 選ぶたび、喧嘩になった。

「それ、母さんが好きだった」

「好きだった物を全部置いたら、部屋が墓になる」

「捨てれば前へ進んだことになるのか」

「残せば愛してる証明になるの?」

 答えは出なかった。

 それでも火曜日は来た。

 母が買ったまま一度も着なかった服は、地域の衣料回収へ。

 古い手紙は、宛名の人へ返した。

 父しか知らない旅行の切符は、アルバムへ。

 誰も思い出せない鍵は、しばらく保留箱へ。

 弟は四十回目で、母が入院前に書いた買い物メモを見つけた。

〈卵、牛乳、弟の好きな煎餅〉

 その紙だけで一週間泣いた。

 姉は七十三回目、母の裁縫箱を譲ると言った。父は反対しかけ、針へ糸を通せない自分に気づいて黙った。

 百二十六回目、部屋には椅子一脚だけが残った。

「これも処分する?」

 姉が聞くと、父は座ってみた。

「少し低いな」

「母さんの椅子だから」

「そうじゃなくて、今の俺には」

 三人は初めて、母が使った物ではなく、これから誰が使うかを話した。

 百二十七回目の火曜日、椅子を窓辺へ移し、部屋を塗り替えた。売却はやめ、家族が帰省したとき泊まれる部屋にした。

 空になった部屋を見て、弟が言った。

「母さんが、もういないみたいだ」

 父は首を振った。

「最初からいなかったんだ。物が多すぎて、いないことを見られなかった」

 窓を開けると、閉じ込められていた空気が外へ流れた。

 誰も母を片づけ終えたとは思わなかった。

 ただ、悲しみのためだけに閉じていた扉を、家族がまた出入りできるようにした。