空のリュックは捨てない
養子縁組を前提にこの家へ来た日、少年は青いリュックを玄関へ置いた。
中身は歯ブラシ、着替え二組、千円札、亡くなった実母の写真。それだけあれば、急に別の家へ移ることになっても困らない。
「部屋にしまわないの?」
新しい母になる人に聞かれ、少年は首を振った。
「すぐ出られるようにする」
彼女は「ここから出さない」とも「もう家族だ」とも言わなかった。リュックの隣へ小さな籠を置き、自分たちの家の鍵を入れた。
一か月目、少年は食パンを二枚、机の引き出しへ隠した。以前いた家で、夕食を抜かれた夜があったからだ。見つけた新しい父になる人は、叱らず、台所の棚へ〈夜に食べてよい箱〉を作った。
二か月目、少年は花瓶を割った。
靴を履き、リュックを背負ったところで、二人が帰ってきた。
「どこへ行くの」
「割ったから」
「花瓶を?」
「ぼくを返すでしょ」
二人は顔を見合わせた。
「割れたのは花瓶だけだよ」
父になる人が破片を拾い、母になる人は少年の靴ひもを結び直した。
「出ていくかどうかは、怖いときじゃなく、落ち着いてから三人で話そう」
正式に養子になる日、少年は役所の前でもリュックを背負っていた。
「本当にいい?」と尋ねられ、「まだ全部は分からない」と答えた。
二人は困った顔をしなかった。
「分からないまま、一緒に考えてくれるなら」
少年はうなずいた。
帰宅しても、リュックは玄関に残した。二人も捨てろとは言わなかった。
その冬、町で大きな地震があった。棚が揺れ、三人で外へ避難した。少年は青いリュックをつかんだが、中には自分の着替えしかない。
戻った翌日、彼は千円札と歯ブラシを出した。代わりに、三人分の軍手、携帯用の水、母の薬、父の眼鏡ケースを入れた。実母の写真だけは内ポケットへ残した。
「それ、何の荷物?」
母に聞かれ、少年は背負って重さを確かめた。
「逃げるためじゃなくて、みんなで出るため」
青いリュックは今も玄関にある。
空にはならなかった。
けれど少年はもう、それを一人で持っていくつもりはなかった。