空箱に名前を書く

玄関に積まれた段ボールのいちばん上に、「まきちゃん」と丸い字で書いてあった。

蒔子はガムテープの端を爪で起こした。中から出てきたのは、折れたクレヨン、金色の折り紙で作った王冠、通知表、片方だけの白い靴下。どれも二十年以上、母が捨てずにいたものだった。

「それ、あなたのだから持っていって」

台所から母の声が飛んだ。引っ越し業者が来るまで、あと二時間。蒔子は床に「持つ」「捨てる」「母」と書いた紙を並べていたが、母の箱には最初から行き先が決められているらしい。

「私のじゃないよ」

「名前が書いてあるでしょう」

箱の側面には、ひらがなの「まきちゃん」が三つもあった。母は今でも電話でそう呼ぶ。仕事の名札には「蒔子」とあるのに、その四文字を母の口から聞いたことがない。

王冠を持ち上げると、糊が乾いた音を立てた。裏に母の字で「年長 おゆうぎ会」とある。蒔子には、かぶった記憶がなかった。

「これを覚えていたいのは、お母さんでしょう」

母が台所から出てきた。濡れた手をエプロンで拭きながら、箱をのぞく。

「親は、こういうのを取っておくものなの」

「取っておいていいよ。お母さんの荷物としてなら」

蒔子は太い油性ペンで、「まきちゃん」の上に一本線を引いた。黒い線の下で、幼い呼び名だけがまだ読めた。その横に、新しく「母の思い出」と書く。

母は何か言いかけ、王冠を受け取った。指でつぶれた角を直してから、「新しい部屋の押し入れは狭いのよ」と小さく言った。

箱の底から、前歯の抜けた蒔子が笑う写真が出てきた。母はそれを見て、ようやく笑った。

「この頃は、何でも見せてくれたのに」

蒔子は写真を母の手の上に重ねた。

「だから、持っているのはお母さんでいい。置く場所まで私にしないで」

母の笑みは消えたが、写真を返そうとはしなかった。

「捨てるかどうかも、お母さんが決めて」

蒔子は底に残っていた未使用の段ボールを一枚抜いた。自分の車へ運ぶ。中身はない。名前もない。

玄関で母が、「まきちゃん、それは何に使うの」と呼んだ。

蒔子は振り返り、ペンの蓋を開けた。

「蒔子の箱にする」

今度は消されない字で、自分の名前を書いた。