窓際四番の午後
百成一澄が市立図書館へ通い始めたのは、読む本があったからではない。
自宅の机には未処理の郵便物が積み、会社の机には未処理の仕事が積んである。どちらへ座っても「次にすること」が目に入った。図書館の二階、窓際四番の席だけは、誰の用事も置かれていなかった。
土曜の午後、一澄は薄い随筆集を一冊選び、四番へ座る。
窓の外には欅があり、季節ごとに頁の色を変えた。春は若葉、夏は濃い緑、秋は黄、冬は枝の黒。読書が進まない日でも、木を眺めていれば席を借りた意味がある気がした。
いつも三番へ座る老人がいる。
二人は挨拶だけで、名前を知らない。老人は新聞を畳み、三時になると水筒の茶を飲む。一澄はそれを合図に、館内の自動販売機で紙カップの珈琲を買った。
ある日、老人が来なかった。
空いた三番へ誰かが座るたび、一澄は少し落ち着かなかった。自分でも理由が分からない。
翌週、老人は何事もなく現れた。右手に白い包帯を巻いている。
「お休みでしたね」
一澄が初めて挨拶以上の言葉をかけると、老人は包帯を持ち上げた。
「柿の木から落ちました」
「新聞は読めますか」
「左手でも頁はめくれる。少し遅いだけ」
その日、老人は新聞をいつもの倍の時間かけて読んだ。
一澄の随筆集も、返却期限までに半分しか進まなかった。
カウンターで延長を頼むと、司書は何も咎めず処理した。
「急いで読む本ではなさそうですね」
表紙を見て、そう言った。
会社なら遅れには理由が必要だ。ここでは、まだ読みたいというだけで期限が伸びた。
冬の午後、欅の枝へ薄い雪が載った。
老人が水筒を開け、一澄も珈琲を買う。
二人の間に会話はなく、紙をめくる音だけが交互にした。暖房の風には、古い本と乾いた上着の匂いが混じっている。
閉館の音楽が流れた。
一澄は栞を挟み、まだ途中の本を鞄へ入れた。老人も新聞を畳む。
「また来週」
どちらからともなく言った。
窓際四番は一澄の席ではない。予約も名前札もない。それでも次の土曜、そこへ座れば、自分の途中をそのまま続けられる。
図書館を出ると、コートの袖に紙と珈琲の香りが残り、家へ帰るまでの道が少しだけ静かだった。