笑顔残高
毎朝、真砂周作は駅前の無人店で、感情スコアを決済端末にかざしてから缶コーヒーを買う。
「安定度六十二。衝動購入の恐れなし」
機械音とともに百二十円が引かれる。それが出勤前の儀式だった。感情が乱れている者には決済を許可しない。それだけの、親切な制度だと周作は思っていた。
その朝、妹の灯里から「熱が四十度ある」とメッセージが来た。
周作は会社を抜け、解熱剤と水、ゼリー飲料を抱えて同じ系列の店へ駆け込んだ。冷房の効いた店内で、額の汗だけが引かなかった。棚の前で薬剤情報を三度読み、眠くならないものと胃に優しいものを選んだ。焦ってはいたが、判断は間違えていないつもりだった。
無人レジに手首を置く。青い円が一周し、赤に変わった。
「安定度三十八。強い焦燥を検出。安全のため決済を停止します」
「薬だぞ。俺が使うんじゃない」
端末には説明欄が一つしかなかった。
《感情が不安定な状態での商品選択は、本人および周囲の健康を損なう可能性があります》
現金投入口は数年前に塞がれている。家族代理の項目を押しても、購入者の感情が判定対象だという同じ説明に戻った。
深呼吸をした。幼い頃、風邪をひいた自分の額に、灯里が冷たいタオルを何度も載せてくれたことを思い出した。大学を辞めかけた夜、何も聞かず隣に座ってくれたことまで浮かんだ。思い出すほどスコアは三十四、三十一と下がった。
後ろに列ができた。誰も怒鳴らない。怒れば自分も買えなくなるからだ。
十分後、パジャマの上にコートを羽織った灯里が店へ入ってきた。頬は赤く、足元はふらついている。
「来るなって言っただろ」
「兄ちゃんじゃ買えないと思って」
灯里が端末に手首を置く。
「安定度九十一。適切な購買判断です」
薬も水も、あっさり決済された。
周作は妹の腕を支えた。熱い。端末の表示では、灯里の感情は驚くほど静かだった。
「なんで九十一なんだよ」
灯里はレシートを見て、小さく笑った。
「治らなくてもいいって思ったら、急に落ち着いた」
袋の中で缶コーヒーだけが、朝のまま冷えていた。