第七条は花嫁を売らない
婚約更新の祝宴で、王太子ローディアンは杯を掲げた。
「エルヴァティア・モルネールは、北街道の徴税権を隣国商会へ売った。王家を裏切った女との婚約を破棄する」
広間の壁には、彼女を悪役令嬢と呼ぶ囁きが波のように走った。北街道は母から継いだ領民の命綱だ。売るはずがないと知る者さえ、王太子の断言の前では口を閉ざした。
街道沿いには七つの村と冬の療養院がある。徴税権を失えば、除雪費も薬代も外国商会の気分次第になる。ローディアンは半年前から権利証を見せろと迫り、拒むたび『王妃になる自覚がない』と責めていた。今になって、その執着の理由がはっきりした。
彼は売買証書を示さなかった。ただ王太子の言葉だけで有罪にできると信じ、衛兵へ鎖まで用意させている。エルヴァティアは怖さより、三年間この傲慢を愛情と呼ぼうとした自分への悔しさを覚えた。
エルヴァティアは泣かず、首元の真珠を一度だけ整えた。
「殿下は、婚約契約の第七条をお忘れですか」
「言い逃れか」
「確認です。原本を」
ただ一人、王立公証院長アルヴァロが進み出た。彼は庇う言葉を口にせず、金庫から持参した契約書を卓上へ置く。
第七条――花嫁の家産は婚礼まで花嫁のみの所有とし、処分を試みた者の署名と目的を、契約書の余白へ自動転記する。
エルヴァティアが条文を指でなぞると、空白だった余白に黒い文字が浮かんだ。
『北街道徴税権を担保として借財。行為者、ローディアン。用途、戴冠祭の私的競馬』
静寂の中で、王太子の杯が震えた。
「国の威信のためだった。だが契約上の責任は、管理者である君にも――」
「第七条は、花嫁を財産ごと売るための条文ではございません」
ローディアンは急に声を和らげた。婚約破棄は撤回する、王妃になれば街道も守れる、と。
エルヴァティアは指輪を外し、彼が汚した条文の上へ置いた。
「破棄を受諾します。街道も、わたくしの未来も、二度とあなたの担保にはいたしません」
彼女は元婚約者に背を向けた。アルヴァロは出口で、命令ではなく選択を待つ手を差し出している。エルヴァティアは自分の足で歩み、その手を取った。