第二ボタンは渡せない
卒業式が終わると、門脇杏珠は「潮見橋の向こうまで、恋人でいよう」と言った。
橋は高校から港へ続く、歩いて七分ほどの古い橋だった。杏珠は夕方の船で島を出て、京都の美術学校へ行く。椎谷征司は翌週から造船所で働く。遠距離なんて簡単だと友人たちは言ったが、二人は待つことを約束にしたくなかった。
一年半前、告白したのもこの橋だった。杏珠が先に「付き合って」と言い、征司は三歩遅れてうなずいた。喧嘩のあとの仲直りも、初めて手をつないだのも橋の上だ。始まりの場所を終わりに選ぶところが、彼女らしかった。
「橋、もっと長ければよかったね」
「昨日までは、錆びてて嫌いって言ってたろ」
「今日だけ延長工事してくれないかな」
卒業証書の筒が、歩くたびに鞄の中でこつこつ鳴った。潮の匂いも、杏珠の歩幅も、明日からは思い出になる。征司は何度も息を吸った。
別れたくない。
待つと約束してほしい。
君からだけは卒業したくない。
どれも、言えば彼女の未来に重りをつける気がした。
橋の中央で、杏珠が立ち止まった。
「第二ボタン、もらっていい?」
「今さら?」
「今さらだから欲しいの」
征司は制服の胸へ手を伸ばした。けれど指が震え、なぜか袖口の小さなボタンを引きちぎってしまった。
差し出してから間違いに気づいた。杏珠も気づいたはずなのに、何も言わず、両手で大切そうに包んだ。
「じゃあ、ここで卒業ね」
「……卒業、おめでとう」
「征司も、おめでとう」
杏珠は笑った。泣きそうなときほど、彼女はきれいに笑う。
橋の向こうへ歩き出した背中に、征司は一歩もついていけなかった。追えばまだ間に合う。正しいボタンも、正しい言葉も渡せる。それでも靴の裏が、中央の継ぎ目に縫いつけられたように動かなかった。
やがて杏珠は港へ下りる坂に消えた。
征司は胸元を見た。心臓の上には、渡すはずだった第二ボタンが残っている。
彼女が持っていったのは袖口の小さな一つだけだった。
二人は卒業した、と最後まで言えなかった証拠のように、残されたボタンは海風の中でかすかに揺れていた。