紙コップの底に朝はない
澪奈が休憩室へ入ったのは、午前二時十七分だった。
病棟の廊下は照明を半分落としているのに、ここだけは昼間と同じ白さだった。天井の蛍光灯が細く鳴り、壁際の薬品用冷蔵庫が、ぶうん、と低く回っている。窓には雨が斜めに当たり、粒が長い線になって落ちた。
十五分休憩。紙コップのコーヒーは、飲む前から少しぬるかった。
澪奈は電子レンジへ持参したスープを入れた。透明な扉の向こうで容器が回る。正面、横、裏側、また正面。回転皿は一周ごとに小さく軋み、その間にも冷蔵庫は止まり、また動き出した。
病室では眠れない人がいて、眠らなければならないのに眠れない自分もいる。休憩に入ると、誰からも呼ばれない十五分が急に広くなった。スマートフォンには夕方から新しい通知がない。家族のグループには昼の写真が並び、澪奈が働いている時間だけ、世界から切り取られたように見えた。
レンジが三度鳴った。
扉を開けたところで、休憩室のドアが少しだけ開いた。別の階の制服を着た人が顔をのぞかせ、電気ケトルへ水を足した。
「まだ降ってますね」
「そうですね」
それだけ言うと、その人は湯が沸くのを待たず、ポケットの呼び出し音に急かされて出ていった。残されたケトルの底で、気泡が小さく生まれ始める。
窓の雨。冷蔵庫の低音。ケトルの水が回る音。澪奈は誰の名前も知らないまま、その三つを聞いた。
壁の掲示板には、昼勤の人たちが書いた連絡が並んでいた。勉強会の日程、冷蔵庫の整理、誰かの休暇のお土産。澪奈が眠っている時間に貼られ、剥がされる紙ばかりだ。その端に、使いかけの青い磁石が一つ余っていた。澪奈は落ちかけた当直表を、その磁石で留め直した。誰も気づかない程度のことだったが、紙はもう揺れなかった。
紙コップの底には、朝らしいものは何もなかった。ただ薄い茶色の輪が残っていた。澪奈はそれを捨てず、スープを半分まで飲んだ。
十五分が終わる。白い廊下へ戻る前に、ケトルのスイッチが切れた。
澪奈は空になった紙コップを重ね、雨の夜を一人で持てる重さにして、ドアを開けた。