終点の忘れ物
午後十一時四十八分、最終電車の扉が閉まるたび、稲見湊は父の青い手帳を探した。
「お忘れ物はございませんか」
車掌の放送。向かいの席で銀色のライターを鳴らす男。窓を横切る、三つ並んだ給水塔。午前零時三分、終点に着く直前、車内灯が消える。次に点けば、また十一時四十八分だった。
父は半年前、この電車で心臓発作を起こした。遺品一覧にだけ、青い手帳がなかった。母の施設費を隠した貸金庫の番号が書いてある、と父は生前に言っていた。
一周目は網棚を、二周目は座席の下を探した。三周目、銀のライターの男を問い詰めた。男は煙草も持っていなかった。
「これ、毎回ここにあるんだよ」
ライターの底には、小さく「三号車十二番」と彫られていた。湊が十二番席の背を外すと、青い手帳が落ちた。
午前零時二分。間に合った。湊は胸に抱えてホームへ飛び降りた。
だが改札へ向かう階段の途中で車内灯が消え、また十一時四十八分。手帳は消え、男がライターを鳴らした。
「お忘れ物はございませんか」
次は手帳を開いた。最初のページに父の字があった。
〈湊へ。これを持ち出せば、おまえは何度でも私を探す〉
貸金庫の番号は続くページにあった。だが最後には、もっと小さな文字で、手帳そのものが父の「帰りたい」という未練を閉じ込めた時刻器だと記されていた。終電が終点へ着くには、持ち主が手帳を置いていかなければならない。
午前零時二分。湊は番号を暗記しようとした。しかし数字は読んだ端から曇り、父の声に変わった。
『ちゃんと飯、食ってるか』
湊は笑いそうになり、泣きそうになった。
三号車十二番に手帳を戻す。代わりに、自分の定期券を挟んだ。父が次に目を覚ましたとき、息子がここまで来たことだけは分かるように。
「お忘れ物はございませんか」
「あります。でも、置いていきます」
午前零時三分。最終電車は初めて終点に着いた。
改札を出ると、貸金庫の番号も、父の最後の声も思い出せなかった。ポケットには定期券すらない。施設費のあては消えた。
それでも背後で、電車が回送へ変わる音がした。湊は始発までの暗い道を、母に金の相談をするため歩き出した。