終点の神様は乗らない
山間バスの終点〈八折峠〉には、いつも一人の青年が立っていた。
美濃部早蕨が運転手になった初日から、雨の日も雪の日も、彼は苔むした道祖神の隣で最終便を待っていた。けれど乗車口を開けても、決して乗らない。
「町まで百八十円です」
「道の神が道を離れたら、誰が帰りを守る」
「では、何を待っているんです」
「君のバス」
それから十五年、早蕨は最終便のたび峠で五分休んだ。青年は里の噂を聞き、早蕨は山の季節を教わった。差し入れた缶珈琲は減らなかったが、湯気の匂いだけを彼はうれしそうに吸った。
いつから恋になったのか、二人とも知らない。
触れ合ったことはない。ただ、早蕨が運転席へ戻るとき、青年が「気をつけて」と言う声だけが、どんなお守りより頼もしかった。
過疎化で路線の廃止が決まった。
最後の運行日、乗客は早蕨一人だった。
「道祖神を町へ移せないか、会社に頼んだ」
終点で彼女は言った。
「博物館の庭なら、毎日会える」
青年は首を振った。
「石は移せる。だが私は、この峠を越える者の願いから生まれた。道のない場所へ運ばれれば、別の何かになって君を忘れる」
「ここに残れば?」
「道が忘れられれば、眠る。次に誰かが峠を越すまで、百年でも」
早蕨は制服の胸ポケットから退職届を出した。
「では私がここに住む。毎日、峠を越える」
「人の一生を、神の目覚ましにするな」
初めて強い声だった。
青年は笑い、道祖神の足元から小石を一つ拾った。
「持っていって。私ではない。ただ君が無事に帰った道の欠片だ」
早蕨は受け取った。
冷たい石なのに、掌の中でかすかに温かかった。
発車時刻になった。
「一度だけ、乗りませんか」
「終点から先へ行くバスはない」
「回送です。どこへでも行けます」
「だから乗れない」
扉を閉める。
早蕨はミラーを青年へ向けたまま、ゆっくり発車した。
彼は手を振らなかった。
道を守る神は、旅立つ者ではなく、見送る者だからだ。
最初の曲がり角で姿が消えた。
早蕨は停車せず、泣きながら山を下りた。
翌春、路線跡は草に覆われた。
彼女は遠い町で路線バスを運転した。胸ポケットには、あの小石がある。
終点へ着くたび、誰もいない乗り場に向かって言う。
「気をつけて帰ってね」
それはもう彼の声ではなかった。
けれど十五年分の別れが、彼女を誰かの帰り道を守る人にしていた。