終電のひと駅ぶん
終電で、亡くなった兄が隣へ座った。
会社を辞めた帰りだった。鞄には退職届の控えと、誰にも見せていない再就職の資料が入っている。兄が生きていれば、真っ先に馬鹿にして、それから朝まで相談に乗っただろう。
車内放送が次の駅名を告げると、兄は吊り革の影から形を得た。
「ずいぶん老けたな」
「そっちは死んだときのまま」
「得だろ」
兄は、列車が駅と駅の間を走っている間だけ現れた。停車すると消え、発車すると同じ席へ戻る。
一駅目で、兄は仕事を辞めた理由を聞いた。
上司の暴言でも、体調でもない。兄が残した小さな印刷所を閉めたことがきっかけだった。家族は継がなくていいと言った。自分もそう決めた。けれど別の会社で働くほど、兄の場所を見捨てた気がして苦しくなった。
「印刷所、継いでほしかった?」
兄は窓へ映る暗い町を見た。
「お前、機械の油で吐いただろ」
「子どもの頃の話」
「今も顔が青い」
列車が停まり、兄は消えた。
発車すると、今度は向かいの席に現れた。
「閉めた日のこと、怒ってる?」
「怒ってた」
胸が詰まる。
「俺の場所を、俺より先に片づけたから」
「ごめん」
「でも、置いといても俺は帰らない」
兄は、印刷所の最後の仕事が妹の結婚式の席次表だったと話した。見本を一枚、机の裏へ貼っておいたという。そんな物は見つけなかった。
「探しに戻る?」
「もう建物は売った」
「じゃあ、探さなくていい」
終点まで、あと二駅。
兄は鞄を指した。
「次、何する」
「分からない」
「分からないのに資料は三社ぶん」
「見たの?」
「死者は鞄をのぞいても怒られない」
最後の発車。
兄の輪郭は薄かった。
「印刷所を閉めたのは、俺を捨てたからじゃない」
「分かってる」
「分かってない顔だ」
「じゃあ、何だった」
「お前が生きる場所を空けたんだろ」
終点の放送が流れ始めた。
兄は立ち上がり、昔のように額を指で弾いた。
「次の場所で、俺の続きじゃなく、お前の一枚目を刷れ」
扉が開くと、席は空だった。
翌朝、三社のうち一番小さな会社へ応募した。印刷とは関係のない、地域の広報を作る仕事だった。
面接用の書類をコンビニで印刷すると、余白に薄い汚れが出た。兄の指紋のように見えたが、刷り直さなかった。
終電の路線には今も乗る。
駅と駅の間で隣が空いても、もう兄を待たない。
次の駅で降りる人のために、鞄を膝へ寄せる。