終電を見送る手
「終電、逃さないでね」
雪平真緒が残業するたび、久我原湊斗はそう言って先にパソコンを閉じた。けれど本当に先に帰ったことはない。真緒が資料を保存するまで給湯室で待ち、駅の改札まで送り、そこで反対方向のホームへ消える。
同じ企画室で三年。湊斗は明日から金沢支社へ異動する。送別会の帰り、二人はいつもの改札前に立っていた。午前零時まであと九分。真緒の終電は七番線、湊斗が泊まるホテルは反対側だった。
「荷ほどき、頑張ってください」
「真緒も、朝の会議に遅れないで」
最後なのに、交わすのは明日の仕事の話ばかりだった。好きだと口にすれば、望んでつかんだ異動へ重りをつけてしまう。だから真緒は笑って、定期券を改札へ触れた。
七番線に電車が滑り込む。ドアの前で振り返ると、湊斗が階段を駆け下りてきた。ホテルとは逆だ。
「乗らないんですか」
「乗る。真緒の駅まで」
「戻れなくなりますよ」
「今夜は戻る場所、ホテルだから」
彼はそう言って、真緒の手からスマホを取り、予定表を開いた。翌月の土曜日に《真緒と部屋のカーテンを選ぶ》、その次には《湊斗が東京へ来る》と入力する。すでに新幹線の予約番号まで貼られていた。
「異動したら、同僚じゃなくなると思ってた」
「同僚ではなくなるよ」
湊斗は真緒の手を取り、混み合う車内へ引いた。つり革が空いていても離さない。真緒は連絡先の《久我原さん》を《湊斗》へ直し、彼の画面では《雪平さん》が《真緒》に変わるのを見た。
発車ベルが鳴る。ホームへ戻ることはできる。それでも二人は同じドアの内側に立った。
車内で真緒は、送別会でもらった花束を二人の膝の間へ置いた。湊斗は金沢の新居の写真を見せ、真緒は窓際に置く小さな机を指さす。そこへ自分が座る未来を、もう冗談として追い払わなくてよかった。降車駅が近づくと、湊斗は「次は俺の街で」と予定を一件増やした。
「終電、逃さないでね」
いつもの気遣いは今夜、電車ではなく、これからの二人を逃さないための言葉になった。