緊急連絡先は友人一名
二十九歳の誕生日を三週間後に控えた夜、律花の郵便受けに「単身入居者向け安否確認サービス」の申込書が入っていた。
廊下で転んだ住人が二日間発見されなかったらしい。管理会社は希望者だけ、と赤字で添えていたが、律花には「一人で暮らすなら備えてください」と読めた。
氏名、部屋番号、連絡方法。最後の欄だけが埋まらない。
〈緊急連絡先/続柄〉
配偶者を持つ予定は今のところない。けれど、その「今のところ」がいつまで続くのかを考えるたび、胸の奥に冷たい隙間ができた。恋人がいないことより、倒れたとき誰にも気づかれない未来のほうが怖かった。
注意書きには〈配偶者・親族・友人など、すぐに連絡が取れる方〉とある。「友人」は最後に付け足された例のようで、律花はそこへ自分の暮らしを押し込むことをためらった。
机には、昨日作った二本の合鍵があった。青いカバーの鍵と、赤いカバーの鍵。赤を誰かに渡せば安心できる。でも鍵を渡すほどの相手がいないと認めるようで、袋から出せずにいた。
申込期限は今夜だった。
律花は友人とのトーク画面を開き、三度書き直して送った。
〈変なお願いなんだけど、緊急連絡先になってもらえない? 合鍵も預けたい〉
既読がつくまでの一分で、断られた後の暮らしをいくつも想像した。迷惑だと思われる。重いと言われる。友人はいつか別の生活を優先して、鍵を返してくる。
返事は二件に分かれて届いた。
〈いいよ〉
〈ただし、私の緊急連絡先にもなって。片方だけ助けられるのは落ち着かない〉
律花は笑ったあと、少し泣いた。
申込書の続柄欄に「友人」と書く。たった二文字は、仮の関係にも、配偶者になるまでの待合室にも見えなかった。今ここにある約束の名前だった。
赤い鍵を封筒に入れ、青い鍵を自分の鞄へ戻した。不安が消えたわけではない。友人が引っ越す日も、関係が変わる日も来るかもしれない。それでも、そのたびに頼み直し、預け直すことはできる。
律花は申込書の署名欄に自分の名を書いた。
守ってくれる誰かを待つのではなく、助けを求める自分でいる。その手間ごと引き受けるように、最後の一画をゆっくり止めた。