緑の表紙を閉じる日
文具店で、布張りの緑色のノートに指が止まった。
二十七歳の澄佳は、来月から始まる大阪勤務をまだ断ろうとしていた。異動願いに判を押せないまま昼休みに逃げ込み、似た色を見ただけで、高校二年の夏へ引き戻された。
鞠乃との交換日記も、同じ緑だった。
その日の放課後、窓際の席で受け取ったノートは、いつもより薄く感じた。最後まで書かずに渡されたのだと思った。
〈父の仕事で、来週引っ越すことになりました〉
たった一行だった。
どうして先に言わなかったの、と澄佳は責めた。鞠乃は制服の袖口を握り、何度も口を開いたのに、結局「ごめん」としか言わなかった。
「日記には書けるのに、私には言えないんだ」
そう言って、澄佳はノートを机に置いた。置いたというより、突き返した。角が木の天板に当たり、乾いた音がした。
鞠乃は拾わなかった。
翌朝、彼女の席は空だった。予定より早く出発したと担任から聞いた。緑のノートだけが、澄佳の靴箱に入っていた。
最後のページには、昨日はなかった文字があった。
〈次は澄佳の番。どこに行っても、続きを書いて〉
その下は白紙だった。
澄佳は長いあいだ、その白さを置き去りにされた証拠だと思っていた。別れを告げた側だけが前へ行き、残された自分には何もないのだと。
けれど今、売り場の照明の下で新品のノートを開くと、白紙は空っぽではなかった。行き先を選べる余白に見えた。
鞠乃とは成人式で一度会った。互いに謝らず、近況だけを話して別れた。それで十分だったのかもしれない。帰り際、鞠乃は緑色の手袋を振った。その色を見ても、澄佳はもう追いすがらなかった。あの夏に戻って言い直せなくても、渡された続きを生きることはできる。
澄佳はスマートフォンを取り出し、上司への返信を開いた。
〈大阪勤務、引き受けます〉
送信してから、緑のノートをレジへ持っていく。
最初のページに書く言葉は、もう決まっていた。
〈次は、私の番〉
今度は、閉じた表紙を自分の鞄に入れた。