署名から消える人
処刑状を清書する部屋で、リエッカは悪魔ヴォルゼルへ羽根ペンを差し出した。
「一文、現実を書き換えるたび、おまえの真名から一文字もらう」
羊皮紙の余白で、黒い口が笑った。
夜明けには、反乱の首謀者とされたディムナが広場で吊られる。彼は反乱など起こしていない。領主が村の穀倉を焼いた証拠を見つけただけだ。だが処刑状には、証人も自白も、すべて整っている。
リエッカは最初の一文を書いた。
――囚人ディムナは、夜明けまで独房に置かれる。
「独房」を「書記室」に変える。インクが肉のように脈打ち、扉の向こうで鎖が鳴った。ディムナが本当に書記室へ移されてくる。
その代わり、机上の名札から「リ」が消えた。衛兵は彼女を見て首をかしげた。
「エッカ殿、囚人をお連れしました」
二文目。
――自白書は囚人の右手で署名された。
「囚人」を「領主」に書き換えた。封蝋の下から署名が浮き直し、領主の筆跡になる。名札から「エ」が消えた。
三文目。
――穀倉を焼いた者は、処刑をもって罪を償う。
主語を余白へ書き足す。領主の名が黒々と現れた。廊下で鐘が鳴り、処刑人たちの足音が方向を変える。
名札には「カ」しか残らない。ディムナでさえ彼女を見ながら、誰に礼を言えばよいのか分からない顔をした。
「最後の一文字を残せ」とヴォルゼルが囁く。「名のない者は、記録にも記憶にも留まれぬ」
リエッカは処刑状の末尾を見た。
――書記は以上を真実として承認する。
この一文が残れば、改竄の罪は彼女に着せられ、ディムナも再び捕らえられる。彼女は「書記」を「領主」に直した。
名札は空白になった。
朝、広場で領主が自らの署名によって拘束され、ディムナは釈放された。群衆は、誰が証拠を書き換えたのかと騒いだ。書記室には濡れたペンと、まだ温かい椅子だけがある。
ディムナは扉の脇に立つ女へ道を譲った。
「失礼。どなたです?」
女は答えようとした。舌は動いたのに、音にならない。真名を失った口からは、自分を指す言葉だけが消えていた。
その肩越しで、羊皮紙の悪魔が満足そうに名乗った。
「今日から、おまえは私の余白だ」
女が書記室を出たあと、床に残った足跡さえ、誰のものだったか思い出す者はいなかった。