署名だけが違う
久里浜香子は、平戸修悟から届いた二年分のメッセージを印刷して、喫茶店のテーブルへ置いた。
向かいに座る蓬田一惺は、最初の一枚を見ただけで目を伏せた。
〈雨がやんだら、君の町の匂いも変わるのかな〉
〈今日の失敗は、明日の君を笑わせる材料にしよう〉
〈会えない夜は、君の話を思い出すと少し短くなる〉
どれも差出人は修悟だった。
けれど書いたのは一惺だった。
遠距離恋愛を始めた修悟は、文章が苦手だからと幼馴染の一惺へ相談した。最初は言い回しを直すだけだった。やがて修悟が箇条書きで送る出来事を、一惺が恋人らしい文章へ変えるようになった。
香子は、その言葉を支えに二年間を待った。
だが再会した修悟は、画面の中の人とは違った。沈黙の種類も、慰め方も、好きな本さえ噛み合わない。三か月前、二人は別れた。
「どうして今、教えたんですか」
香子が訊く。
「このまま黙っているほうが、もっと卑怯だと思った」
「今まで書いた言葉は、全部嘘?」
「修悟から聞いたことを形にした。でも、君を心配したのも、夜を短くしてあげたいと思ったのも、僕です」
一惺は指先を握り込んだ。
「香子さんが好きです。書き始めた頃から、ずっと」
香子は笑わなかった。
「私も、あの文章を書いた人を好きになっていました」
一惺が顔を上げる。
「でも、その人は私に一度も自分の名前を教えなかった」
希望が浮かぶ前に、彼の表情が崩れた。
「会って話せば、僕自身を知ってもらえる」
「知りたいとは思います。でも恋人としてではありません」
「どうして」
「私は修悟を信じていた二年間と、あなたが隠していた二年間を、同じ恋の続きにはできないから」
香子は紙の束を二つに分けた。
半分を一惺へ返し、半分を鞄へしまう。
「捨てないんですね」
「言葉まで嫌いにはなれません。私を救ってくれた夜は、本物だったから」
「署名だけが違った」
「署名は、大事です」
店を出る前、一惺は最後の一枚の余白へ、自分の名前を書いた。
初めて嘘のない手紙になったが、渡す相手はもういなかった。
香子が持ち帰った紙には、修悟の名前が残ったままだった。
けれど読み返すたび、彼女はもう一人の声を聞いた。
愛していた言葉と、愛せなかった隠し事が、同じ文字の中でほどけずに残っていた。