署名は一つ、指紋は二つ

 彫刻家の名取鉄舟は、温室脇の茶室で毒殺された。

 死因は、花瓶の水に溶かされたトリカブト。警察が最初に疑ったのは名取千景だった。

 庭師は、千景が夕方に温室で花を切るのを見た。使用人は、茶室から鉄舟と千景の言い争う声を聞いた。電子錠の記録にも、午後七時十二分、〈名取千景〉が茶室へ入ったと残っている。

 だが、千景には完璧なアリバイがあった。

 彼女はその時刻、市民会館でピアノを弾いていた。演奏は生配信され、千二百人が見ている。開演から終演まで舞台を降りていない。

「記録の改竄でしょう」

 千景は白い演奏用ドレスの袖を握った。

 私は三つの証言を読み直した。

 庭師が見た千景は、右手で剪定鋏を使っていた。使用人が声を聞いた相手は、「父さん」と叫んでいた。茶室の取っ手から採れた指紋は、ピアニストの千景とは一致しなかった。

 翌日、名取家の全員を集めた。

 長男の妻が、白い服で席につく。少し遅れて、黒い作業着の女が工房から入ってきた。

「紹介がまだでしたね」

 彼女は名取家の長女だった。三か月前に離婚し、旧姓へ戻っている。

 名は、名取千景。

 偶然にも、弟の妻と同姓同名だった。

 印刷された電子錠の記録は、利用者番号を省き、氏名だけを表示していた。庭師は長男の妻を見たが、茶室へ入ったのは長女。使用人は普段、二人を〈奥様〉〈お嬢様〉と呼ぶため、警察が「千景さんですか」と尋ねると、どちらにも頷いてしまった。

「父は工房を売ろうとしていた」

 作業着の千景が低く言った。

 彼女の右手から、茶室の取っ手と同じ指紋が出た。工房の排水口には、花瓶へ毒を溶かした乳鉢も残っていた。

「同じ名前なら、証拠も混ざると思ったんですか」

 私が問うと、彼女は弟の妻を見た。

「この家では、あの人だけが千景と呼ばれていたから」

 手錠の音に、白い服の千景が息を呑む。

 署名は一つに見えた。

 けれど名前が同じでも、指紋まで同じにはならなかった。