脚立の上と下
家業の電気工事店へ戻って三年、娘はいまだに父から「手伝い」と呼ばれていた。
第二種も第一種も取り、蓄電設備の資格まである。それでも現場では父が脚立に上り、娘は下から工具を渡す。
「配線図、先に確認して」
「この家の癖は俺が知ってる」
「癖で電気は流れない」
「教科書だけで現場は回らん」
言い争いの末、娘は独立すると告げた。父は「好きにしろ」と背を向けた。
最後の仕事になったのは、町の保育園だった。嵐の夜、漏電で非常灯まで消えた。迎えを待つ子どもたちが、暗い廊下で泣いている。
父はいつものように脚立を開いた。だが一段目で、古傷のある膝が崩れた。
「俺が上がる」
「上がれないでしょ」
「お前に古い盤は――」
「触ったことがないと思ってる? 三年間、下から全部見てた」
娘は工具袋を腰へ巻き、脚立に足をかけた。
「押さえて」
父は何も言わず、両手で脚立をつかんだ。
天井裏の配線は増改築で複雑に継ぎ足されていた。父が経験で見抜いた経路を下から伝え、娘が測定器で漏電箇所を絞る。どちらか一人では時間がかかった。
「右の古い線」
「右は生きてる。原因はその奥」
「見えんだろ」
「数値が見える」
十分後、廊下に明かりが戻った。子どもたちの歓声が天井裏まで届いた。
降りると、父はまだ脚立を強く握っていた。
「手、震えてる」
「お前が落ちたら困るからだ」
「信用してない?」
「信用と心配は別だ」
翌朝、店先の看板が掛け替えられていた。父の名だけだった代表欄が、〈共同代表〉に変わっている。
「独立するって言ったけど」
「するなら止めん。ただ、残る選択肢も同じ高さに置いた」
娘は新しい名刺を一枚抜いた。
「共同代表なら、指示じゃなく相談だからね」
「年長者への敬意は必要だ」
「現場では資格と担当が上」
父は渋い顔をしたが、次の依頼書を娘へ差し出した。
「蓄電池の案件だ。上、行くか」
娘は脚立を持ち上げた。
「今回は私が上。父さんは下」
「下が支えてることを忘れるな」
「上が見つけるものも忘れないで」
二人は並んで店を出た。
親子であることは変わらない。
けれど脚立の上と下は、仕事ごとに交代できるようになった。