苺を最初に食べる日

桐生沙弓が転職して初めての給料日は、前の会社より六万八千円少なかった。

通帳アプリの数字を確認してから、駅ビルで苺のショートケーキを一つ買った。白い箱を提げて帰る途中、母から「初任給、どうだった」とメッセージが来た。沙弓は通知を消し、答えを翌日に延ばした。

母は、沙弓が銀行を辞めた理由を知らない。朝になると吐き気がしたことも、日曜の夕方から息が浅くなったことも、「もったいない」と言われるのが怖くて話せなかった。転職先は小さな出版社で、給料は下がった。その代わり、六時半には帰れて、昨夜は目覚ましが鳴るまで眠れた。前の会社の最後の給料日には、駅のトイレで振込額を見ただけで、何も食べずに帰った。

部屋のテーブルにケーキを置く。苺の甘酸っぱい香りが、薄いフィルムを外した途端に立った。冷えた皿の縁を左手で押さえ、沙弓はフォークを持つ。

子どものころから、苺は最後に残すものだった。母が「一番いいものは、ご褒美に取っておきなさい」と教えたからだ。試験も仕事も、嫌な時間を耐えれば最後に報われると、長いあいだ信じていた。

沙弓は苺にフォークを刺した。

先端からかじると、冷たい果汁が舌へ広がった。何かを我慢したあとでなくても、苺はちゃんと甘かった。

次に、クリームの多い上段を食べた。ふわりとしたスポンジが歯の裏でほどける。残業後の深夜には味が分からなかった甘さを、今日は急がず飲み込めた。

皿には、クリームの少ないスポンジの角が一口だけ残った。沙弓はそれを眺めながら、給与明細の画面を開いた。数字だけ切り取れば、失敗に見える。けれど、毎晩眠れることは明細には載らない。

母への返信欄に、転職したこと、給料が下がったことを入力した。退職理由はまだ書かなかった。最後に「今日は七時に家でケーキを食べてる」と加え、送信する。

既読がつく前に、沙弓は残った一口を食べた。

苺を待たせなかった今日くらい、自分の答えも待たせなくてよかった。