茶名の外で

榛葉璃子が十七代目の茶名を継ぐ朝、蘇武央士は露地の入口に新しい表札を掛けた。

〈榛葉宗璃〉

央士が彫り、漆を塗った文字だった。付き合って六年になるのに、そこには彼の知る「璃子」が一文字もないように見えた。

式の前夜、二人は誰もいない茶室で向かい合った。炉の炭が小さく鳴る。

「親族会議、決まったの」

璃子が言った。

「聞いた。分家の人と結婚するんだろ」

「来春に」

「おめでとう、と言えばいい?」

「言わないで」

榛葉流は百四十年続く茶の家だった。弟子は八十人、職人や事務員もいる。跡取りが家の外の人間と結婚すれば、古参の後援者が離れる。央士が婿に入る案も出たが、「看板屋の家では釣り合わない」と一度で退けられた。

「俺と逃げる?」

央士は冗談のように訊いた。

璃子は首を振った。

「逃げたら、私が守りたいものまで全部、家柄のせいで嫌いになりそう」

「俺は、守りたいものに入ってない?」

「入ってる。だから一緒に壊したくない」

央士は畳の目を数えた。

彼女に家を捨てろと言えば、愛を証明させることになる。待つと言えば、誰かの妻になる璃子の影で生きることになる。どちらも選べなかった。

璃子が茶碗を差し出した。

最後の一服はひどく苦かった。

「明日から、皆の前では宗璃先生ね」

「二人のときは?」

「二人のときは、もうない」

央士は茶碗を置き、初めて作法を外れて彼女の手を握った。

「璃子」

「うん」

「好きだった」

「過去形にするの、早いよ」

「明日の俺が困らないように、今日のうちに練習する」

璃子は笑い、泣いた。

翌朝、襲名式には大勢の弟子が集まった。央士は庭師や職人に混じり、表札の傾きを直した。

式を終えた璃子が門を出る。

二人の目が合った。

央士は深く頭を下げた。

「榛葉宗璃先生。このたびは、おめでとうございます」

彼女も家元の顔で礼を返した。

「立派な表札を、ありがとうございました」

それが二人の別れだった。

夕方、央士は工房へ戻り、表札の試し板を裏返した。そこには彫る前に鉛筆で書いた〈璃子〉の二文字が残っていた。

表には出せない名前を、彼は削らずにしまった。

家を継ぐ彼女の外側に、確かに一人の恋人がいた証として。