落札したのは自由
競売台の上で、黒角の魔族ヴァルナは鎖につながれていた。
「落札者は胸の所有印を、ご自分の紋へ書き換えられます」
競売人ガザンが羊皮紙を掲げるたび、客席から値が飛んだ。ヴァルナは国境砦を一晩で落とした戦士だという。だが今は、命令されるまで瞬きさえ許されない。右肩には逆らった回数だけ黒い線が増える罰印があり、すでに肌の半分を覆っていた。客たちは傷を見てさえ、壊れかけなら安く買えると笑った。
最後に手を挙げたのは、武器も持たない契約監査人ハルドだった。
落札後、ガザンは金の筆を差し出した。
「さあ、ここへ署名を。主になれば、あれはあなたのために百人でも殺します」
「主にはならない」
ハルドは筆ではなく、監査用の黒い鋏を取った。
羊皮紙の隅には小さく、契約の効力は原本一枚に宿る、とある。複製を禁じ、逃亡を防ぐために売り手自身が加えた条項だった。
「原本を傷つければ商品も死ぬぞ!」
「違う。死ぬと書いてあるのは、所有者の名を消した場合だけだ」
ハルドは名を消さなかった。所有者、対象、命令、罰則――すべてを囲む契約枠そのものを、四辺から切り離した。
羊皮紙がただの細長い紙片へ崩れた瞬間、ヴァルナの胸で赤い印が砕けた。鉄の鎖が床へ落ちる。
ガザンは青ざめ、予備の命令札を振った。
「伏せろ! そいつを殺せ!」
ヴァルナは動かなかった。命令が届かないことを確かめるように、自分の指を一本ずつ曲げた。それから客席を見渡す。誰かを斬ることも、赦すことも、今なら自分で決められる。その事実に気づいた買い手たちは一斉に出口へ殺到した。
彼女はハルドにも背を向けた。
「行ける」
「追わないのか」
「自由になった者の行き先を、私が決める理由はない」
ヴァルナは競売場を出ていった。
ガザンの私兵がハルドを囲んだのは、その直後だった。ハルドは戦えない。ただ、証拠の紙片を革袋へ収め、殴られる覚悟をした。
扉がもう一度開いた。
戻ってきたヴァルナは私兵の槍を一振りで弾き飛ばし、自分の大剣をハルドの前へ置いた。切っ先ではなく、柄を彼へ向けて。
「これは命令ではないぞ」
「分かっている」
彼女は砕けた所有印の跡を指でなぞり、初めて笑った。
「買われたから従うのではない。私を買わなかった男の隣を、私が選ぶ」