薄味の理由

「母さん、店でそれを言うの、もうやめてくれないか」

 月に一度、澄江は息子の倫太郎が営むラーメン店へ来た。開店前の客席に座り、湯気の向こうで一口すすっては、必ず言った。

「しょっぱいねえ」

 倫太郎はそのたび、修業時代まで否定された気がした。店は繁盛していた。雑誌にも載った。なのに母だけが褒めない。

「お客さんの前でも言うだろ。俺の味が嫌いなら、来なくていい」

 澄江はしばらく丼を見つめ、「そうかい」とだけ答えた。

 翌月、開店前の椅子は空いた。その次の月も。

 静かになってせいせいするはずだった。だが倫太郎は、味見のたびに母の渋い顔を思い出した。腹立ちまぎれに塩を足すと、常連が水を二杯飲んだ。

 三か月後、澄江が台所で転んだと隣人から連絡が来た。幸い骨折はなかったが、念のため入院したという。

 母の部屋へ着替えを取りに行くと、食卓に一冊の大学ノートがあった。表紙には「倫太郎の店」と書かれている。

 開けば、日付と血圧、その日の感想が並んでいた。

〈麺が前より滑らか。本人には言わず〉

〈叉焼がやわらかい。褒めると徹夜するから言わず〉

〈スープ、先月より少し薄い。あの子は怒りながらも直す〉

 最後のページだけ、文字が震えていた。

〈父親も濃い味が好きで、褒めるほど無理をした。四十九で倒れた。倫太郎には長く店を続けてほしい。嫌われても、しょっぱいと言う役は母親がする〉

 病室で、倫太郎は保温瓶の蓋を開けた。店のスープを、いつもの倍の出汁で割ってきた。

「味、しないかもしれないけど」

 澄江はゆっくりすすった。眉を寄せる。その顔を見て、倫太郎の肩が強張った。

「薄いねえ」

「……うん」

「やっと、毎日食べられる味になった」

 母は笑った。倫太郎はうつむき、蓋の内側に落ちた雫を拭うふりをした。

 翌週、店の定休日が一日増えた。新しい暖簾の横には、小さく「薄味できます」と貼った。

 退院した澄江はまた開店前の椅子に座った。一口すすり、今度は何も言わなかった。

「どうなんだよ」

「褒めると無理するんだろう?」

 倫太郎は笑い、母の丼にだけ、出汁をもう一杯足した。