薬棚が働く湖畔

王都施療院を辞めた朝、榛名千景は白衣を捨てられなかった。

袖口は消毒薬で薄くなり、右のポケットには夜勤札が三枚入ったまま。胸元の通信板には《緊急》が四十七件並んでいたが、どれも開かなかった。開けばまた、自分が行かなければ患者が困ると思ってしまうからだ。

千景が移り住んだ湖畔の小屋には、祖母が残した《処方水車》があった。水車が回ると、乾燥棚から必要な薬草が一枚ずつ滑り、硝子の天秤が重さを量る。乳鉢はひとりでに円を描き、湧き水を加え、熱が要る薬だけ小さな青火で温める。完成した回復薬は瓶へ注がれ、村の共同箱へ転送された。

千景がするのは、週に一度、処方札を確かめることだけだ。

昼前、窓辺の会計鈴が一度鳴った。

《共同診療所への定期納品完了。薬師権使用料、入金済み》

豪邸を買える額ではない。だが小屋代と食費、それに冬の薪を足しても余る。千景はその数字を見るたび、胸の奥に空気が戻る気がした。

直後、古い通信板が赤く明滅した。施療院の薬務長からだった。

『夜勤者が二人倒れた。君なら調合室を回せる。今夜だけでいい、戻ってくれ』

今夜だけ。その言葉を、千景は六年間で何百回も聞いた。

彼女は初めて通知を開き、短く打った。

『雇用契約は終了しています。戻りません。必要な薬は処方水車から購入してください』

送信すると、指先が少し震えた。けれど湖は何も責めず、岸辺で小さく光っている。

引っ越した最初の三日は、水車が鳴るたびに千景は立ち上がった。薬が焦げたのではないか、誰かが自分を呼んでいるのではないかと、胸だけが先に走った。けれど水車は一度も彼女を必要とせず、村の医師から届いたのは《今週も助かった》という礼だけだった。誰かを助けることと、自分を使い潰すことは同じではない。働かなくても薬が届くなら、休んでいる自分にも存在する意味がある。そう思えるまで、湖を七日眺めた。

水車が薬を混ぜる音を背中に、千景は通信板の緊急通知をすべて切った。物置から祖父の釣り竿を持ち出し、まだ昼にもならない桟橋へ歩いていった。