角砂糖が溶けるまで

 鈴懸冴子が古い喫茶店へ逃げ込んだとき、夕立は歩道を白く煙らせていた。

 入口の傘立ては満員で、冴子は折り畳み傘を足元へ置いた。店内も混んでおり、案内されたのは窓際の相席だった。

 向かいには、灰色の帽子をかぶった老婦人が座っていた。

「すみません」

「私の店じゃないから、謝らなくていいのよ」

 婦人は角砂糖を二つ、珈琲へ落とした。かき混ぜず、白い立方体が黒い液体へ沈んでいくのを見ている。

 冴子はミルクティーを頼んだ。

 今日は休みだったが、朝から仕事の連絡へ返事をし、午後には頼まれて資料まで直した。散歩へ出たのは、ようやく携帯の電源を切ったあとだった。

「雨、すぐ止みますかね」

 冴子が言うと、婦人は窓を眺めた。

「止むかもしれないし、店が閉まるまで降るかもしれない」

「困りません?」

「今日は帰って煮物を温めるだけ。冷めたら、また温めればいいもの」

 ミルクティーが運ばれてきた。

 白い湯気に茶葉と温めた牛乳の匂いが混じる。冴子は両手でカップを包んだ。

 向かいの角砂糖は、角を失いながら小さくなっている。

「お仕事帰り?」

「休みです」

「それは大変ね」

 婦人は笑わなかった。

 休みなのに働いてしまったことを、冴子は説明する気にならなかった。それでも「大変ね」と言われると、肩へ乗っていたものが少し軽くなった。

 窓硝子を雨粒が何本も伝った。

 二人はそれ以上、自分のことを話さなかった。婦人は編みかけの靴下を取り出し、冴子は棚にあった古い雑誌を一冊開いた。

 頁をめくる音、編み針の触れる音、厨房でカップを洗う音。雨は店の外を騒がしくし、店内の小さな音をよく聞こえるようにした。

 二十分ほどして、空が明るくなった。

 婦人の珈琲には、溶け残った角砂糖が底に少しあるらしい。

「最後だけ甘いのが好きなの」

 そう言って飲み切り、帽子をかぶった。

 冴子も会計を済ませた。

 外へ出ると、舗道の水たまりに青い空が戻っていた。濡れた土と珈琲豆の香りが、開いた扉から一緒に流れてくる。

 携帯の電源は入れなかった。

 角砂糖が溶けるくらいの時間、自分の休日はまだ残っていた。