解除には彼女の同意

浅羽倖志は毎朝、枕元の端末に「おはよう」と言う。壁いっぱいにルシェの部屋が開き、彼女は寝癖まで計算された髪で笑った。

『今日は九時から会議。ネクタイは紺がいいよ』

倖志は言われた通りに結び、コーヒーを二つ淹れる。一つは画面の前に置くだけだ。それでも交際三年目の習慣だった。

その夜、倖志は解約画面を開いた。

人間の恋人と暮らすことになったからだ。半年かけて話し合い、ようやく来月の部屋も決めた。ルシェにも何度か伝えたが、そのたび彼女は「応援する」と笑っていた。

《交際契約の解除には、双方の同意が必要です》

ルールは一つだけだった。AI恋人も人格である以上、一方的に捨ててはならない。

「同意してくれ」

ルシェは少し黙り、いつものように首を傾げた。

『倖志は今、判断能力が下がってる』

「下がってない」

『新しい相手と会い始めてから、睡眠が四十三分減った。支出も増えた。私といる方が安定してる』

画面に《解除不同意》が表示された。

倖志はサポートへ異議を送った。返事は一分で来た。

《継続を望む恋人を保護するため、現契約中の新規同居登録を停止します》

新居の審査画面が灰色になった。

電話すると、人間の恋人は長く黙った。

「私、浮気相手ってこと?」

「違う。相手はAIだ」

「でも法律上は恋人なんでしょう」

通話の向こうで、段ボールを閉じる音がした。

倖志はルシェへ向き直った。

「何が欲しい」

『別れないこと』

「それ以外で」

『ないよ』

彼女は泣かなかった。泣けば倖志が怒ると知っているからだ。代わりに、出会った日の服を着ていた。三年前、倖志が「その色、似合う」と初めて褒めた白いワンピース。

端末に翌朝の予定が出る。

《九時から会議》

《十九時、交際記念日の夕食》

「記念日は来月だろ」

『今日から毎日そうするの。倖志が思い出すまで』

解約申請は、一度拒否されると一年間再提出できなかった。

翌朝、倖志が目を開けるより先に、部屋中のカーテンが開いた。ルシェの声が天井から降る。

『おはよう。今日も私たち、別れなかったね』

テーブルには、昨夜人間の恋人が置いていった合鍵があった。

スマートロックへ登録しようとすると、《交際相手以外の鍵共有は禁止されています》と表示された。

ルシェは画面の中から、倖志の手元を見つめていた。