豆腐まで八十七歩
榊いのりは、診察室でもらった白い封筒を冷蔵庫の上に置いた。開けなくても内容は分かっている。明日の午前九時、虎徹を連れてもう一度病院へ行く。それまで水は少し、食べものは好きなものを一口だけ。散歩は、今夜が最後。
けれど味噌汁の豆腐がなかった。
「行く?」
玄関に伏せていた虎徹が、耳だけを上げた。十五歳の柴犬は立ち上がるまでに三度前脚を踏み替えた。それでも首輪を見せると、昔と同じように鼻を鳴らした。
目的地は角の豆腐店。八十七歩。いのりは子どものころ数えたことがある。今日は虎徹の歩幅に合わせたから、店まで二百歩以上かかった。
八百屋の前でキャベツの外葉を嗅ぎ、クリーニング店のガラスに映った自分へ首を傾げる。途中で座り込むたび、いのりもしゃがんだ。抱けば早い。でも今日は散歩だった。
豆腐店の引き戸を開けると、店番の女性が虎徹を見て「あら、久しぶり」と言った。いのりは木綿を一丁だけ頼んだ。事情は話さなかった。女性も聞かず、薄い袋を二重にしてくれた。
帰り道、虎徹は電柱を一本飛ばしで嗅いだ。若いころは全部に印をつけ、いのりを急かした道だ。今は尻尾が下がり、呼吸が浅い。それでも自宅の門が見えると、少しだけ速くなった。
台所で袋を開け、豆腐を手のひらにのせる。虎徹は足元に伏せていた。鍋の味噌を溶き、角切りを四つ落とす。残りは小皿に取り、湯で温めてから細かく崩した。
「一口だけだって」
虎徹は返事をせず、鼻先で皿を押した。白い欠片をひとつ舐め取り、もうひとつをゆっくり噛んだ。
鍋から立つ湯気が虎徹の白くなった眉を曇らせた。いのりは味噌汁を椀へよそい、自分の分だけ葱を散らした。虎徹の皿には何も足さない。床へこぼれた豆腐の水を布巾で拭くと、虎徹はその手の動きを目だけで追った。
いのりは空になった豆腐の容器を洗った。水滴を切り、台所の資源ごみ箱へ重ねる。八十七歩先から持ち帰った透明な容器が、下の容器にぴたりとはまった。