赤い修正ペンを置く
入社四年目の亜澄は、誰かの原稿を見ると、赤い修正ペンを持たずにはいられなかった。誤字だけではない。言い回しを整え、余白を詰め、写真の位置まで直す。広告制作部では「亜澄さんに回せば安心」と言われたが、その言葉の裏で、彼女の机にはいつも終電まで仕事が残った。
春の異動で隣に来た榊原幹也は、ほとんど話さない。挨拶は小さく頭を下げるだけ。昼休みも、薄い文庫本を読みながら塩むすびを食べていた。亜澄は彼を、何を考えているのかわからない人、と分類した。
ある夜、新人の企画書を直していると、幹也が帰り支度の途中で足を止めた。画面いっぱいの赤字を見て、机の端に一枚の付箋を置く。
『今日ひとつ、直さず返してみて』
「これ、誤字があるんですけど」
幹也は誤字の箇所を指し、それから別の一文を指した。そこには荒いけれど、今までの広告にはない、妙にまっすぐな言葉があった。
「どっちを残すかってこと?」
幹也は首を横に振った。答えの代わりに、赤い修正ペンのキャップを閉めた。
亜澄は腹が立った。直すのが自分の仕事だ。未完成のまま返して困るのは新人で、責任を取るのは自分だ。そう思いながら、画面を見直した。赤字の下で、新人の文章は息ができないほど細くなっていた。
昼間、その新人が自分の文章を見て、少しだけ困った顔をしていたことを思い出した。礼は言ったが、嬉しそうではなかった。亜澄はそれを、指摘の多さに落ち込んでいるだけだと決めつけていた。直せば助けになるという考えには、相手がどうしたいかを尋ねる余地がなかった。
削除キーに指を置く。修正履歴を一つ戻すと、言葉が元の形に戻った。頼りなく、でも誰かの声がした。
送信欄に「修正しました」と打ちかけ、消した。代わりに書く。
『誤字が一か所あります。それとは別に、この一文をどうして書いたのか聞かせてください』
赤い修正ペンを引き出しにしまう。少し怖かった。自分が直さなければ、相手が考える。その時間を待つことを、亜澄はこれまで仕事だと思っていなかった。
時計は二十一時を回っていた。彼女は赤字のないファイルを添付し、送信ボタンを押した。