赤い取っ手のコップ
縄手暁継が妻の里都を連れて実家へ帰ったのは、結婚して二年目の秋だった。
玄関へ出てきた母は、里都の顔を見るなり、「鈴花」と呼んだ。
鈴花は暁継が六歳のころ、道の駅で行方不明になった三歳下の妹だ。家では、もうその名を口にしないことになっていた。
「ごめんなさいね。似ていたものだから」
母は笑ったが、夕食のあいだも里都の左耳ばかり見ていた。里都の耳の裏には、小さな三角形の痣がある。
食後、母は里都を二階の子ども部屋へ案内した。
机も玩具も、妹が消えた年のまま残っている。里都は棚から赤い取っ手のコップを取り出した。
「これ、口に当たるところが少し欠けてる」
確かめる前に、そう言った。
実際、縁には爪ほどの欠けがあった。
「昔、同じものを持っていた気がして」
里都は照れたように笑った。
夜、暁継は母に呼ばれ、仏間で古い母子手帳を見せられた。
鈴花の出生時の体重、血液型、耳の痣。三歳の欄には、熱いコップを倒して右手首を火傷したとある。
里都の右手首にも、半月形の傷がある。
「里都は養女なんだ」
暁継は声を落とした。
「三歳より前のことは何も覚えていない。県境の休憩所で一人でいたところを保護されたって」
母は母子手帳を抱き締めた。
「鈴花が消えたのと、同じ日よ」
暁継は笑おうとした。偶然だ。似た痣も、同じ傷も、欠けたコップを知っていたことも、すべて偶然でなければ困る。
寝室へ戻ると、里都は腹に手を当てていた。
「さっき、お義母さんに言っちゃった。三か月だって」
「まだ安定期じゃないのに」
「でも、すごく喜んでくれたよ」
廊下で両親が話していた。
「役所には、いつ知らせる」
「生まれてからでいい。今さら二人を引き離せない」
翌朝、食卓には赤い取っ手のコップが二つ並んでいた。
一つは暁継が幼いころ使っていた青い名前シール付き。
もう一つには、薄くなった字で〈すずか〉と書かれている。
里都は迷わず後者を手に取った。
「不思議。こっちのほうが持ちやすい」
母は里都の腹を見て、泣きながら微笑んだ。
「そうでしょう。あなたのだから」