赤い温度計
深夜二時、治験薬保管庫の警報が鳴った。
私は当直表を見た。担当は峰岸耀平。常務の一人息子で、十一時前に出社しては「判断するのが俺の仕事」とソファで動画を見ている男だった。
電話すると、眠そうな声が返った。
「その警報、前も誤作動だったろ。止めといて」
「現場確認が必要です」
「俺の命令が聞けないの? 給料分くらい働いてよ、桂木さん」
私は保管庫へ走った。冷却機の弁が閉じ、温度は八度を超えていた。予備電源へ切り替え、治験薬は別庫へ移した。二百四十箱を一人で運ぶ間、箱の表面についた霜が手袋を濡らした。応援を呼ぼうにも、耀平は当直者名簿から補助要員を外していた。「人件費を減らした実績」にするためだった。
朝六時、温度は基準内へ戻った。耀平は九時半に現れ、礼も言わず記録画面の異常値を五度に書き換えた。「監査で細かい数字を見る奴はいない」と笑い、私には始末書の下書きを命じた。
その日の午後、規制当局の抜き打ち監査が入った。
会議室で耀平は胸を張った。
「温度管理手順は僕が刷新しました。現場には厳しく指導しています」
監査官が端末を回した。クラウド側に残った原本には、警報を停止した入館証番号と、改ざん前の温度推移が並んでいた。番号の持ち主は耀平。さらに、同じ操作が過去半年で七回あり、承認者は峰岸常務だった。
常務は「現場の教育不足だ」と私を指した。
監査官は首を振った。
「桂木さんの夜間対応がなければ、全ロット廃棄でした。むしろ、この会社が出荷停止を免れる根拠は彼女の記録です」
扉が開き、社長と人事部長が入ってきた。社長は一枚の決議書を机に置いた。
「峰岸常務は本日付で辞任。耀平君は記録改ざんと業務命令違反により懲戒解雇。品質保証責任者には桂木澄玲さんを任命する」
耀平が笑った。
「冗談だろ。親父が常務だぞ」
返事の代わりに、人事部長が彼の入館証を読み取り機へかざした。
赤い温度計の下で、峰岸耀平のカードも二度、赤く点滅した。