赤い靴は測らない
環は、赤いものを手に取るたび、元恋人の声を思い出した。
「色に着られるタイプだよね。目立ちたいなら別だけど」
別れたあとも、その言葉だけはクローゼットに残った。試着室で赤いニットを脱ぎ、通販の赤い鞄をお気に入りから外し、口紅は無難なベージュに戻した。誰にも見られていないのに、選ぶたびに彼の採点を受けていた。
金曜の帰り、駅ビルの靴店で、赤いフラットシューズが目に入った。つま先が少し四角く、革は艶を抑えてある。派手というより、熟した林檎の皮みたいな色だった。
環は二十三・五センチを出してもらった。鏡の前に立つと、まず脚が短く見えない角度を探した。次にスマホを取り出し、写真を撮ろうとした。画面に映しておけば、帰宅してから欠点を拡大できる。似合わない理由を見つけられれば、買わずに済む。
カメラを開く直前、環はスマホを裏返して丸椅子に置いた。
左右の靴で店内を一周する。踵が少し浮く。店員に中敷きを入れてもらうと、今度は足がきちんと収まった。それだけを確かめた。
「こちらにしますか」
環は鏡ではなく、自分のつま先を見た。
「はい。これで」
支払いを終えて店を出ても、胸が晴れることはなかった。赤はやはり強すぎる気もしたし、明日の朝には後悔するかもしれない。
それでも環は、紙袋から箱を出してもう一度撮影したり、誰かに判定を頼んだりしなかった。
帰宅後、環は箱を玄関に置いたまま夕飯を食べた。返品期限と店の電話番号を一度確認し、箱へ戻すための薄紙も捨てずに残した。買ったことを勇気の証明にしたくなかったし、怖くなれば返品する自分も想像できた。ただ、元恋人に見せるつもりで撮った試着写真だけは一枚もなかった。翌朝まで、靴は誰の評価も受けずに箱の中で眠った。
迷いは、眠っただけで消えてはいなかった。それでも箱は開けた。
翌朝、近所のパン屋まで履いた。帰り道、片方のつま先に小さな擦り傷がついた。
環は立ち止まらず、その傷ごと玄関まで歩いた。