赤い鞄が向かう先

父の葬儀が終わった翌朝、古い郵便鞄をくわえてきたのは、十三歳の雑種犬ルートだった。

「今日は日曜日よ。配達はないの」

水科都麦がそう言っても、ルートは玄関を前脚で叩いた。爪の音は、父が出勤前に靴底の雪を落とす音に似ていた。

父・征一郎は三十七年間、この町の郵便配達員だった。定年後も赤い鞄を肩に、ルートと同じ道を歩いた。心臓を悪くしてからは鞄だけが廊下の棚に残り、都麦はそれを見ないようにして東京へ戻る支度をしていた。

八年前、故郷を出る日に父は「困ったら帰れ」と言わず、「米は送る」と言った。先月の最後の電話でも、「ちゃんと食べてるか」しか言わなかった。忙しいの、と都麦は切った。その三日後、父は倒れた。

仕方なく鞄を肩に掛けると、ルートは坂道を上り始めた。

最初の豆腐屋では、主人が揚げたての厚揚げを包んでくれた。

「征さん、娘さんは辛いもの好きだから生姜を多めに、ってさ」

理髪店では、小さな封筒を渡された。

「東京で頑張ってるって、散髪のたび自慢してたよ。帰ってこいとは一度も言わなかったな」

駄菓子屋、診療所、閉まった小学校。ルートはそのたび尻尾を一度だけ振った。どの家にも郵便はなかった。代わりに、父が直した雨樋の話、雪の日に薬を届けた話、家出した中学生を黙って駅まで送った話があった。町中の人が、都麦の知らない父を少しずつ鞄へ入れた。

最後に犬が止まったのは、町外れの赤いポストだった。ルートは鞄の底へ鼻を突っ込み、よだれで湿った葉書を一枚、都麦の靴の上に落とした。

宛名は都麦。父の字だった。

――帰る場所は、帰ってこいと言わない場所でありたい。けれど、困ったときはルートに鞄を持たせる。あいつは私より正直だから。

消印のない葉書を胸に当てると、ルートが座り込んだ。長い配達を終えた顔だった。

都麦はしゃがみ、白くなった犬の額に自分の額を寄せた。

「遅いよ。ふたりとも」

ルートは一度だけ鼻を鳴らした。

「これは出せないね。もう届いたから」

帰り道、赤い鞄には厚揚げと九通の手紙が入っていた。来たときよりずっと重いのに、都麦の肩は不思議と軽かった。

ルートは先を歩かず、初めて彼女の隣を歩いた。