赤字は全部消してください
出版社の総務に転職した杷木奏瀬は、初日に編集長から分厚い紙束を渡された。
「今日中に、この赤字を全部消してください」
奏瀬は紙面を見た。赤い文字がびっしり並んでいる。
「全部、ですか」
「ええ。残したら大事故です」
「監査には?」
「見つかる前に処理します」
編集長は迷いなく答えた。
奏瀬の背中を冷たい汗が伝った。出版社は景気が悪いと聞く。だが入社初日に粉飾決算へ加担させられるとは思わなかった。
「赤字を消して、黒にするんですね」
「もちろん。黒くなければ商品になりません」
「数字を動かす権限はありません」
「数字? そこは動かさなくていいです。助詞を二つ、段落を一つ動かしてください」
暗号だ、と奏瀬は判断した。
隣席の編集者にも探りを入れた。
「皆さん、こういう処理を?」
「毎月ですよ。著者が増やし、我々が消す。終盤は徹夜です」
「罪悪感は?」
「あります。せっかく書いてくれた文章ですから」
金額ではなく文章に見せかけているらしい。周到である。
奏瀬は念のため経理課へ走った。
「編集部が大量の赤字を抱えています」
経理課長は疲れた顔でうなずいた。
「知っています。毎日増えますね」
「止めないんですか」
「締切前は仕方ありません。赤字が多いほど、後で直す人が泣きます」
「会社の帳簿にも影響が?」
「売れなければ、そちらの赤字にも影響します」
二種類の赤字が連動している。奏瀬の疑念は確信へ変わった。
さらに印刷所から電話が来た。
『赤が残ると刷れません。校了は何時ですか』
「印刷所まで共犯なんですか」
『はい?』
奏瀬は意を決し、コンプライアンス窓口へ電話した。
「会社ぐるみで赤字を消しています。黒にして商品化すると」
窓口の担当者はしばらく黙り、やがて尋ねた。
『杷木さん。配属は総務ではなく、校閲補助ですよね?』
「校閲?」
編集長が赤ペンを持ち上げた。
「誤字を直した印です。修正を反映したら赤字を消して、本文を黒字に戻すんですよ」
奏瀬は紙束を見下ろした。
「では会社の赤字は?」
編集長は遠い目をした。
「それは誰にも消せません」