赤胡椒を下げた魔王
和平晩餐会で、アリネの前に置かれた肉料理には赤胡椒が山ほど振られていた。
人間の王が「魔族流の歓迎だ」と笑う。断れば和平に水を差す。通訳官にすぎないアリネは、黙って匙を取ろうとした。
その手を、魔王ゼファルの声が止めた。
「下げろ」
七つの勇者軍を一夜で滅ぼした最強の魔王が、給仕を見ただけで広間を凍らせる。
「しかし陛下、同じ皿を皆さまに――」
「余は食える。アリネは食えない」
彼女が赤胡椒で喉を腫らすと話したのは、三か月前、旅の野営で一度だけだった。ゼファルは代わりに、塩と香草だけで焼いた肉を運ばせる。付け合わせまで、彼女の好きな酸味のある林檎だった。
「覚えていたのですか」
「おまえの嫌がるものを、余が忘れる理由はない」
声はいつもどおり冷たいのに、皿の温度を確かめる指先だけが慎重だった。
食事の終盤、人間の王子が立ち上がった。
「和平の証として、アリネ殿には今夜から魔王陛下の側妃になっていただこう。両種族を結ぶ名誉ある役目です」
広間に拍手が起きる。アリネには何も知らされていなかった。
「私は、なりません」
拍手が途切れた。
王子は笑顔のまま言う。
「通訳官一人の意思で、国家間の取り決めを覆せると?」
ゼファルが杯を置いた。石卓に細い亀裂が走る。
「覆せる」
「ですが、陛下も彼女を特別に――」
「特別だから所有するのではない」
魔王はアリネへ向き直った。
「ここに残るか。人間領へ帰るか。今夜は部屋で休むか」
選択肢のどこにも、彼の望みは混ぜられていない。
「今夜は帰りたいです。自分の家へ」
「分かった」
ゼファルは和平文書から婚姻条項だけを炎で消した。人間の王が立ち上がる。
「国の面目が――」
「面目で彼女の返事を塗り替えるな」
魔王は全使節を見渡し、命じた。
「馬車を出せ。和平は結ぶ。婚姻は結ばない。アリネの『嫌だ』より上位の命令は、この場には存在しない」