赤鉛筆の朝食
編集プロダクションの共有本棚で、榊原梢は古い食卓随筆を見つけた。百円の値札が残り、角は丸く、朝食の章だけが何度も開かれている。
買って三日目、〈空腹を仕事熱心と呼んではいけない〉という一文に赤線が引かれた。翌週には〈温かいものを一口〉の横へ、小さく「十時でも朝食」と書き足されていた。梢は自分で書いた覚えがない。
梢は半年前に主任になってから、朝はブラックコーヒー、昼は校了後、と決めていた。校了はたいてい夕方まで終わらない。誰かが菓子を差し出しても「食べる暇があれば一行見る」と笑い、周囲が心配するほど冗談を増やした。赤線を見つけた朝だけは、駅で買ったパンを机の隅に置いた。けれど、それを誰かに見られた気がして、素直に礼を言うのも癪だった。
昼間、その本に触れられるのは三人だった。開店前からいるカフェ担当の湯浅、同じ机を使う校正者の真鍋、古本棚を管理する久慈。
手掛かりは三つ。削りたての赤鉛筆の粉。線の端についた、校正で使う「イキ」の記号。そして栞代わりのスープ店のレシートには、梢が昼食を抜いた先週火曜の日付があった。
湯浅の鉛筆は店用の黄色だけで、久慈は値札を貼った後には本へ触れていない。三つの手掛かりを並べると、残るのは真鍋だった。疑いはほとんど答えになったが、梢は現場を押さえるまで黙っていた。
翌朝、梢はいつもより早く来た。真鍋が本を開き、赤鉛筆を宙で止めた。
「勝手にすみません」
真鍋の妻が入院した春、彼は締切を抱えたまま何日も食べられなくなった。梢は理由を聞かず、毎朝ポタージュを机に置いた。その後、梢自身が忙しさで倒れかけても、誰かに世話を焼かれるのを笑ってかわしていた。
「言ったら、平気って返されると思って。昔の持ち主の書き込みみたいなら、少しは読むかなと」
古本の赤線に見せかけていたのだ。謝る真鍋に、梢は本を閉じなかった。
「でも、レシートまで挟むのは証拠を残しすぎ」
「校正者なのに詰めが甘かったですね」
昼前、二人で例の店へ行った。湯気の立つミネストローネを、梢は匙ですくう。
トマトの酸味が喉をほどいた。
「十時でも朝食。これは採用します」